The Only Exception (16)


「そこは、鳴神君の方から説明を。……鳴神君?」
――はい。お手元の資料の5ページ目になりますが……」
 香月の呼びかけに彼が反応するまで、すこし、間が空いた。彼が何事もなかったかのように話し始めたので、他の出席者たちは気づかなかったかもしれない。だが、香月と守口は思わず目を見合わせてしまった。
 鳴神が、会議中に居眠り。
 ありえない。



「アラタ、これ何? 不良品?」
 バレンタイン限定の赤いギフトボックス。バックヤードの机の上にあったそれを見つけたルブランが、なんの気なしに由井に尋ねた。人気がありすぎて作っても作ってもすぐになくなる、一箱でも貴重なこの商品が、なぜこんなところに無造作に置いてあるのか。
「俺の取り置き」
「え?」
「……ちょっと、頼まれて」
 その様子に、ルブランはぴんと来た。
「まさか、例の彼女?」
 無言。つまり、肯定である。
「ええーっ!? 何それ、だって彼女チョコレート食べられないんでしょ? 何、彼氏に贈るってこと? マジでありえないんだけど!!」
 驚くやら憤るやらあきれるやらのルブランの前で、由井は悲しげに微笑むばかりだった。



 その日は、朝から空気が違った。
「鳴神さん、おはようございます!」
「これ、もらってください!」
 鳴神が社に足を踏み入れると同時に、数人の女性社員が声をかけた。
「どうも、ありがとうございます」
 社内から来るバレンタインプレゼントは、よほど本気の物や高価な物でなければ無条件に受け取ることにしている。ホワイトデーには課ごとにまとめて菓子折りを届けるのが恒例の行事になっていた。ふだん滅多に出向かない課まで彼がやって来るのが面白いらしく、それ狙いで「○○課女子一同」からプレゼントが来ることもある。もはやバレンタインというよりお歳暮お中元の世界であった。
「あ、鳴神さん、おはようございます」
「これ、バレンタインプレゼントです!」
「ありがとうございます」
 秘書室でも、「守口以外の女子一同」からまとめてプレゼントを渡された。このプレゼントの中身はだいたい、他の秘書室の男性社員がもらう義理チョコと同額程度の文房具である。贈られる人間の体質的に仕方ないとはいえ、色気のないことこの上ない。
「おはよう、遥さん。ハッピーバレンタイン」
 すっかり調子を取り戻した守口からは、綺麗にラッピングされたプレゼントを極上の笑顔で手渡された。薄手のオーガンジーから透けて見える中身に、言葉を失う。
「ゆっくりお風呂につかって、疲れを癒して頂戴」
「……ありがとう」
 この一週間、会議の時刻を間違えたり、資料や書類を忘れそうになったりと、ケアレスミスを連発している。それらが大事に至っていないのは、「あーらこんなミスするなんていつも完璧な遥さんらしくないわねえ」と言いながらもフォローしてくれる彼女がいるからだ。プレゼントの内容には一応守口なりの気遣いも感じられ、これまでバレンタインに彼女がくれた物の中ではいちばんありがたい気持ちで、それを受け取った。


 今日は、バレンタインデー。
 翌日は、店を休みにすると言っていた。
 落ち着いたら、連絡が来るはず。
 ……本当に?

 途中、思いあまって由井の部屋を訪ねたりもしたが、彼は出てこなかった。忙しくて帰宅が遅かったり、泊まりになったりしているのかもしれない。
 でも、いるのに出てこないのだったら?

 自分が本当に恐れていたことが何だったのか、わかった。
 彼が、チョコレートを食べられない自分に落胆すること。
 そして、自分のもとから去ってしまうこと。

 だから、言えなかったのに。それがかえって彼の心を傷つけてしまったのだとしたら。


「ため息多いねえ。幸せが逃げるよ」
「……昼食、行ってきます」
「ひょっとして、またストーカー? あの時よりひどいみたいだけど」
「いえ、違います。身辺に危険はありません。個人的な問題です」
「そう。でも、あまり業務に支障を来たすようなら、しかるべきところに相談するなりして速やかに解決しなさい。社長も心配してたよ」
「……すみません」
 それ以上村田にフォローする気力もなく、鳴神は秘書室を後にした。
 通りに出れば、ビジュー・トウキョウは目と鼻の先。店内にはチョコレートを求める人があふれていて、相当なにぎわいだ。
 あの店には、入れない自分。
 こんなに近いのに、遠い。


 あの時行ったカフェの黒板にまたキッシュ・ロレーヌの文字を見つけ、さらに気落ちした鳴神は、結局、ファーストフードでごく簡単に昼をすませてしまった。
 足取りも重く社に戻る途中。ふと、ある匂いに気づいた。目をやると、コックコート姿の男がこちらに向かって歩いてくる。黒髪だが、青い瞳。日本人ではない。
 彼が横を通り過ぎた時、確信した。ビジューの人間だ。この俺が、あの匂いを間違えるはずがない。そういえば、フランス人の同僚がいると言っていた。きっと、それだ。
 由井の様子が聞ける、千載一遇のチャンス。
 しかし。
 彼は由井と同じく、あの匂いをまとっているのだ。声をかけたところで、ちゃんと話ができるだろうか。
 由井以外にあんな姿を見せるのは、絶対に嫌だ。どうすれば――
 迷いながら目で追っていると、彼は近くのドラッグストアに入っていった。
 ――そうだ。
 鳴神も、早足でその店へと向かった。


 頼まれた買い物をすませて店を出てきたところ、
Excuse moi.すみません
Oui?はい?
 突然母国語で問いかけられ、ルブランは反射的に返答してしまった。
 問いを発したのは、白いマスクで顔を覆った男だった。妙に声がこもっていたのはそのせいか。
 なんだこいつ、見るからに怪しい……
「あ」
 その髪や目の色と、フランス語を話すという点に、思い当たる節があった。

「ひょっとしてあなた、アラタの知り合いの人じゃない? えーとなんだったっけ、ナル……ナル……ナルト?」
「鳴神」
 練り物呼ばわりを訂正した鳴神に、
「そうそう、そうだった、鳴神サンだ。KEN-BIの人で、アラタをムッシュ・デュシャンと会わせてくれたり、いま住んでる部屋を紹介したりしてくれたんでしょ? すごく親切な人だってアラタが言ってたよ」
 彼はあっけらかんと笑い、手を差し出した。
「僕、ジェレミー・ルブランです。ビジュー・トウキョウのスーシェフ。アラタとは本店にいた頃から一緒に働いてます」
「ハルカ・ナルカミです。今日はちょっと風邪気味で、こんな格好で申し訳ない」
 握手を交わす。彼の気さくな人柄に勢いを得た鳴神は、何気ない風を装って尋ねた。
「新は元気にしてるかな。お互い忙しくて、しばらく会ってないんだけど」
「んー、ちょっと前は落ち込みすぎてゾンビみたいで見てられなかったけど、今はもう仕事の鬼だね。毎日店に泊り込んで頑張ってるよ」
「落ち込み、って?」
 まさか、自分のアレルギーの話ごときでそこまで落ち込むわけもないだろう。何があったのか。
「あ、それは聞いてない? アラタ、好きな子に振られちゃったんだよね」
「えっ……」
 鳴神は、ルブランのその台詞に、自分でも驚くほどの大きな衝撃を受けた。
「振られた……って、新が?」
「うーん、正確に言うと、彼女に恋人がいて、告白する前にあきらめたみたいなんだけど。鳴神サン、どんな子か知ってる?」
「いや、全然……。好きな相手がいるのも、知らなかった」
 そんなこと、一言も言ってなかったじゃないか、新。
「そうなんだ。僕もあんまり詳しくは聞いてないんだけど、信じられないくらいお似合いのカップルだったから、何も言えずにすごすご帰ってきちゃったんだって。それからもう暗くて暗くて大変だったんだよ」

 ……新の様子がおかしかったのは、その影響?
 俺のこととは関係なかったのか?

 自分が直接の原因ではなかったのかもしれない。そう思っても、全然心が晴れない。むしろ、痛い。
「なんかでも、アラタらしくない気もするんだよね。なんで最初から勝負投げちゃってるのかな。アラタほどの男なら、本気で押せばたいていの女は落とせると思わない?」
「思う」
「だよね!」
 優しくて思いやりがあるし、行動力や根性もあるし、真面目で仕事熱心で周りからの信頼も厚い。しかも、美醜に関しては鋭い感性を持っているはずのデザイナー(ゲイ)が目を輝かせるほどのイケメンだ。あんないい男、そうそういるもんじゃない。俺がその女なら、即刻今の男を捨てて彼のもとに走る。
「その子のために、バレンタイン用の新作ショコラまで作ったくらいなのに」
「……ひょっとして、白ワインの? 日本限定だっていう」
「そうそれ! この忙しいのに、それはそれは根詰めて作っててね。ほんとはその子の名前をつけて、バレンタインボックスに『アラタ』と並べて入れるはずだったのに、結局『アルザス』なんてつまんない名前になっちゃって。あ、『アラタ』っていうのはアラタのオリジナルで、初めてオーナーに認められたボンボン・ショコラなんだけど、あれ? ほんとの名前なんだったっけ」
 胸が、苦しい。とても聞いていられない。
 新はそこまでその女に入れ込んでいたっていうのか。
「あ! そうそう、聞いてよ鳴神サン! ひどいんだよ!」
 聞いていられないというのに、ルブランはなにやら憤った様子で続けた。
「その子さあ、アラタに、彼氏にあげるチョコレート用意してくれって頼んだらしいんだよ!」
「……それは、あんまりじゃないか?」
 そこまで入れ込んだ相手にそんなことを言われるなんて、あまりに新がかわいそうすぎる。
「でしょー! アラタは優しいからちゃんと用意してたけど、まだ吹っ切れてないのがまるわかりで、もう見てて痛々しくてさあ」
 その女もその女だ。あんないい男にそこまで想われているというのに、いったい何が不満だ。お前の彼氏はあれ以上か。そんな男この世にいるのか。
「いくらアラタの気持ち知らないからって、あんまりだよ。あんなに落ち込むくらい好かれてるんだから、普通気づくと思わない?」
「思う」
 ちょっと電話で話しただけですら、おかしな様子が伝わってきたほどなのに。なんて鈍い、ひどい女なんだ。そんな奴に俺の大事な新をやれるものか。
「だよね! もし気づいてやってるんだったら最低だよ!」
「まったくだ」
 そうだとしたらもう絶対に許せない。ちょっとそのバカ女ここに連れて来い、俺が引導を渡してやる。
「僕その話聞いた時、本気で下剤でも仕込んでやろうかと思ったよ!」
「……いや、それは止めた方が」
 その女はどうなろうと構わないが、ビジューの評判に傷がつくのは困る。
「でも、入れたってその子、絶対自分では食べないんだよね」
 ……ん?
「どうして?」
「チョコレートアレルギーだったんだって」





 え?


「まあ、それは体質だからどうしようもないことだけど、アラタには二重にショックだよね。振られた上に、その子のために作ったチョコレートも食べてもらえないなんて。……鳴神サン?」
「あ、ああ、ごめん」
「ひょっとしたら、振られたのよりそっちの方がショックだったのかもしれないな。アラタはほら、チョコレートに命かけてるような男だから、好きな人にそれを食べてもらえないってのは」
「……あの」
 鳴神は控えめに口を挟み、尋ねた。
「新が振られたっていうのは、いつの話?」
「先月の下旬だよ。ああ、ガラ・デュ・ショコラの初日の夜だね。その日の朝にアルザスが完成したから、それ持って告白に行ったんだ。まあ、結局告白できなかったわけだけど」
「……」
「ガラは続いてるのにゾンビになっちゃったから、もう本当に大変だったんだよ。ちょっと立ち直ったかと思ったら、その女からメールが来ててそれ見てまた落ち込んじゃったりして。……鳴神サン?」
「あ、うん」
「大丈夫? 具合悪かったら帰って休んだ方がいいよ。じゃ、僕もそろそろ戻るから」
 生返事を返す鳴神に別れを告げ、ルブランは去っていった。



 一人、その場に立ち尽くす。

 ガラ・デュ・ショコラの初日の夜といえば、守口が鳴神の部屋を訪ねてきた夜である。あの時の二人の会話は、聞きようによっては、ある種の誤解を生んだかもしれない。
 それに、「アルザス」という名の、「白ワイン」を使ったチョコレート。
 相手にチョコレートを頼まれた、という話。
 チョコレート、アレルギー。


 ――――俺に引導を渡されるのは、俺か?


 鳴神はマスクをむしり取ると、研美本社への道のりを猛然と進み始めた。