The Only Exception (17)


「タダイマー。さっき外で、ナルト屋サンに声かけられたよ」
「店長さんに?」
 戻ってきたルブランにレジ袋を渡されながら、由井は何気なく問い返した。「ナルト屋」は近くのラーメン店の名前である。ラーメンにミニチャーハンと餃子3個が付いたナルト屋セットがルブランのお気に入りだ。
「テンチョー? あっ、間違えた! えーっと、鳴神サンだった」
 まったく油断していたところに現れたその名前に、袋の中に突っ込んだ手が止まる。
「ル……鳴神さん?」
「うん、僕の格好でわかったんじゃないかな。アラタは元気?って言ってたよ」
「……そっか」
 ルカさん、俺のこと気にかけてくれたんだ。
 勝手に盛り上がって勝手に落ち込んで、冷たい態度をとったのに。
 ありがとうルカさん。ほんとに、ごめんなさい。
「鳴神サンは風邪ひいてたけどね」
「えっ」
 思わず声が出た。
「顔赤くなかった?」
「わかんないよ、マスクしてたから」
 とりあえず、ほっとする。
「あの人きれいなフランス語話すねー、マスクしてても聞き取りやすかったよ。いろいろおしゃべりしちゃった」
 ルブランの話を聞き流しながら、物思いに沈んでいく。

 具合、どうなんだろう。大丈夫なのかな。
 ……でも、ルカさんにはもう、看病してくれる人がいるんだよな。

 頭を一振り。
 買ってきてもらった栄養ドリンクとゼリー飲料を昼食代わりに流し込み、由井は頬を叩いた。
「っしゃあ、あともうひと踏ん張りだ畜生!」
「愛の日なのに……」
 売り場にはおしゃれに着飾った女性客があふれているというのに、まったく色気のない裏方の様子に、やれやれと肩をすくめるルブランだった。



 力強い足取りで秘書室まで戻ってきた鳴神は、いつもの挨拶もなくつかつかと村田の机までやって来て、口を開いた。
「帝王じゃなかった室長、明日代休を取らせてください」
「えっ!? 急だな」
 妙な言い間違いを差し引いても十分驚きに値する内容で、村田はうっかり驚いてしまった。
「今から調整できるならいいけど」
「します」
 鳴神は自席に戻ると抱えている仕事を確認し、問題のある部分をチェックし始めた。その顔はいつもの精彩を取り戻し――いや、いつも以上かもしれない。
 村田は、彼の机の脇に積もるプレゼントの山に目をやった。
 ひどく落ち込んでいたと思ったら突然浮上、バレンタインデー翌日の休みを申請。
「ちょっと、フラグ立て過ぎじゃないの?」



 最終決戦日、バレンタインデーの営業もついに終了した。ビジュー・トウキョウは明日、一月半ぶりの店休日であり、由井も同期間ぶりの休日である。
 しかし、いちばん働いていたはずの由井が、他の店員たちを先に帰して一人後片付けをしていた。皆も疲れているのには変わりなかったし、幾人かは今夜恋人と会うらしいとの話も聞いていたからだ。
「どーせ俺、暇だし」
 自虐的につぶやきつつ、黙々と大理石の台を拭き上げる寂しいシェフである。

 もう、吹っ切れたと思う。忙しくて気が紛れたのが良かったのだろう。それに、私生活はともかく仕事面は、バレンタイン用詰め合わせが大好評で目標売り上げを大幅に越えることができたし、オーナーばかりかガラ・デュ・ショコラで顔を合わせた名だたる職人や関係者の皆さん、ひょっこり現れたデュシャンにまで「アルザス」を褒められるなど、いいことずくめだった。デュシャンの「美しいな、愛を感じる」という感想は、今となっては心に痛いけれど。
 今日は帰る途中で、何か、白ワイン以外の酒を買おう。やけ酒飲んで丸一日寝倒せば、明後日には完璧に復活できるはずだ。
 ああでも、その前にルカさんに電話しなきゃ。連絡遅くなってごめんって謝って、取っておいたチョコレートを渡そう。逆チョコだから、ちょっとくらい遅くなっても、きっと彼女も許してくれるよね……って、バレンタインデーに間に合いそうにないチョコレートなんか待ってるわけないか。きっともう他の店のを渡して、二人で幸せな時間を――

 由井はダスターを握ったまま、台の上に突っ伏した。

 うわあ俺、まだ余裕で死ねる。
 あれからもう三週間近く経ってるっていうのに、まだまだ全然、余裕ですよ余裕。
 だって俺、あきらめ悪いんだよ。ビジューにだって、今は採用してない、従業員増やす余裕ない、お前いらないって何度も言われたのに、毎日毎日通い続けてオーナー根負けさせたくらいなんだ。
 でも、ルカさんは絶対、俺より彼女とつきあう方が幸せだってわかってる。死ぬほど好きな相手なんだし、第一、女性だ。
 頭じゃちゃんとわかってるんだ。でも。
 ああ、もう。
 こんなんじゃいつまで経ってもルカさんに会えない。どうしよう。

 煩悶している由井の邪魔をするように、裏口のインターホンのブザーが鳴った。
 ああもう、誰だ、こんな時間に。忘れ物か?
「はい、どちら様?」
 いらだったまま通話に出ると、
『あ、すみません、鳴神と申しますが……』
「ルカさん!?」
 悩みのタネ本人が来訪していて、飛び上がるほど驚いてしまった。
『新か?』
「はい」
 すこし迷ったが、
「今、出ますから」
 ショックから遠ざかろうという気持ちより、会いたい気持ちが勝ってしまった。まともに顔を合わせるのは一ヶ月半ぶり、しかも好きだと自覚してからは初めてなのだ。インターホン越しの声すらうれしくて、これで一瞬でも吹っ切れたつもりでいた自分が、あきれるを通り越して笑えてきた。
 ドアを開けると、マスク姿の鳴神が立っていた。そういえば風邪をひいているんだっけ。
「どうしたんですか? こんなとこまで」
「大事な話があって。外から、いるのが見えたから」

 ――ああ、そうだった。
 わざわざ、復縁のお知らせになんか来てくれなくてもいいのに。あ、今チョコレートを受け取れば、彼女に渡すのがバレンタインにギリギリ間に合うから?

 体調を尋ねることも忘れ、一気に落ち込んだ由井に、鳴神は続けた。
「その前に、確認したい。お前、どこで俺のアレルギーの話を聞いた?」
 マスクをしているので、表情は読めない。そこだけ外に現れている大きなヘイゼルの瞳は、静かに、まっすぐに自分を見つめている。
「……」
 由井はぎりりと強く歯を噛みしめ、あの夜、鳴神を訪ねていったことを明かした。が、目的までは明かさなかった。
――そしたらちょうど、ルカさんが女の人と話してるところで。邪魔しちゃ悪いと思って、そのまま帰ったんです。ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
「やっぱり、そうか」

 やっぱり?

 その言葉に由井は、復縁おめでとう、という心にもない一言を発するのを止めた。
 「やっぱり」って、なんだ? あの時、俺がいたのに気づいてたってこと?
「新」
 戸惑う由井の前で、鳴神は、マスクを外した。
「お前には、ちゃんとしたことを知ってほしい」
 あらわになった端正な顔が、由井を再びまっすぐに見つめる。

「俺は、正確には、チョコレートアレルギーじゃない」


 ――え?


「俺は、チョコレートに酔うらしい」



「……酔う?」

 鳴神は、昨年暮れにアレルギー専門医の診察を受けた時のことを話し始めた。


 診察室で一通り話を聞いた医者は鳴神に、チーズや赤ワインを摂ることはあるか、それらで同じ症状は出るかと尋ねた。わりと摂るけれども出たことはないと答えると、次のように言った。
「チョコレートアレルギーの多くは、原料であるカカオに含まれるチラミンという物質に反応して起こるものなんですが、チラミンはチョコレートだけでなく、チーズや赤ワインなどにも多く含まれているんです。それで出ないとすると、他は、同じくカカオに含まれているカフェインやテオブロミン、ニッケル等のアレルギーが考えられますが、お茶やコーヒーやコーラで同様の症状は出ますか? また、今まで金属にかぶれたことは?」
 それもないと答える。医者はさらにいくつかの質問を重ね、
「アレルギー症状にもいろいろありますから断言はできませんが、お話をうかがった限りでは、一般的なチョコレートアレルギーとは異なるようです」
 そして、僕の個人的な感想ですが、と前置きして言った。
「なんだか、二日酔いみたいですね」

 その後、採血してアレルゲン(アレルギー原因物質)検査を受けた結果、調べたすべての項目――カカオも含む――に対し、アレルギー反応は陰性であった。


「アルコールを代謝しきれずに起こる二日酔いと同じように、チョコレートに含まれる何らかの成分をうまく代謝しきれない体質なのかもしれないと言われた」
 とても珍しい症例なので、正確なところはこの病院では判断しかねる。どうしても知りたい場合は専門の研究機関に持ち込む必要があるが、費用もかかるし、調べたところで判明するかどうかわからない、とのことで、鳴神はそれ以上の追究をあきらめた。
「……食べたら、どうなるんですか」
「気分が悪くなって、頭痛や吐き気がしたりする。ひどかったら本当に吐いて寝込む」
 確かに、二日酔いの症状である。しかし。
「結局、同じことじゃないですか」
 原因がアレルギー反応でないからといって、具合が悪くなることに変わりはない。食べられないのは同じではないか。
「違うんだ」
 拳を握り締めて視線を落としていた由井は、鳴神のその台詞に、顔を上げた。そして、気づいた。

 この、顔!

 先ほどマスクを取った時には、間違いなく普通の顔色だった。それが今は、目元が色づき、瞳が潤んでいる。
「ビジューのチョコレートだけは、違う」
「……え」
「他のチョコレートは、匂いだけですぐに気分が悪くなるけど」
 鳴神はその顔で、まっすぐに由井を見つめていた。
「ビジューだけ、例外なんだ……」


 医者に、ある特定の種類のカカオから作られたチョコレートなら大丈夫などということがあるかどうか尋ねると、「あるかもしれません」と返ってきた。
「たとえば同じ小麦アレルギーでも、小麦の種類によってアレルギーが出たり出なかったりするものですし、米でも銘柄によってアレルゲンの多い少ないがあります。僕はカカオの種類には詳しくありませんが、鳴神さんの体に合わない物質の含まれていないカカオがあってもおかしくはないでしょう」
「では、そのカカオだったら、悪酔いではなく、普通に酔った状態になるかもしれない?」
「たいへん珍しいことでしょうが、可能性は否定できませんね」


「あ、あのっ」
 その顔で見つめられたら、まずい。耐えていることが全部、吹っ飛んでしまう。
「顔が赤くなるのは、酔ってるってこと?」
「たぶん」
 視線をそらしながら尋ねる由井の前で、鳴神は、熱い息をついた。
「じゃ、今そんな顔なのは、こ、ここの匂いのせい?」
「そうだ。俺は酒には強いから、これが酔ってる状態だってことに気づかなかった」

 俺が、ルカさんのこの顔を見たのはどんな時だった?
 彼が店に買い物に来た時。
 仕事帰りに偶然彼に会った時。
 彼のそばで温めたフォンダン・ショコラを食べていた時。

 あれらは、発熱や、酒のせいではなくて。

「話すのが遅くなって、本当にすまなかった。自分の反応があまりにいつもと違いすぎて、どう話していいのかわからなかったんだ。それに」
 一呼吸置いて、続けた。
「俺がチョコレートを食べられない人間だと知ったら、新が俺から離れていくんじゃないかって、怖かった」
「そんなこと、絶対ない!」

 たとえルカさんがまったくチョコレートを食べられなかったとしても、俺は。

 思わず目を合わせてしまった由井に、鳴神は、微笑んだ。由井の心拍数が跳ね上がる。
「新」
 頬まで赤くなってきた顔で、告げた。
「俺は、お前の作ったチョコレートを食べたい」
「……大丈夫?」
「わからない。でも、食べたいんだ」

 ――食べてほしい。食べさせたい。
 あんな、売り物の取り置きなんかじゃなくて。

「俺、作ります。今から」

 今、この気持ちで作ったものを。