できあがったら持っていくから部屋で待っていてくれ、と、由井は言った。
鳴神は、まだ酔いが抜けきらぬ風情のまま、自分の部屋にたどり着いた。チョコレートの効果はとっくに切れているはずだが、別の熱に浮かされていたのだ。
由井の好きな相手とは、自分のことかもしれない。そう思った時、こみ上げてきたのはうれしさばかりだった。
長く会えなかった彼に会いたいと思ったのも、電話で冷たい態度をとられてひどく落ち込んだのも、彼に好きな相手がいると聞いてショックを受けたのも、何もかも。自分が彼に惹かれていたからだとわかった。
そして、由井が告白に行った相手はやはり自分だったのだと確信した時は、本当に、天にも昇る気持ちだった。この気持ちの前では、性別などささいな問題でしかないと思えるほどに。
すべての仕事を調整し、明日は晴れて休みを勝ち取った。そしてこれから、彼が、自分のために作ったチョコレートを持ってきてくれる。
彼以外にあんな姿を見せるのは絶対に嫌だが――、彼になら。
ずっと懸念だった体質の告白という大仕事を成し遂げ、浮かれきっていた鳴神は、まだ問題が半分しか解決していないことにまったく気づいていなかった。
「あんな顔で見られてたら、作業どころじゃないよ」
鳴神を家に帰し、あらためて気合いを入れなおした由井は、材料を準備しながら思いを巡らせていた。
ルカさんのあの顔に、そんな理由があったなんて。
酒に弱い人は匂いだけで酔うって聞くけど、同じようなものなんだろうか。
これで彼女さえいなければ、さっき「好きだ」と告白していたら、酔った勢いで受け入れてもらえてたかもしれない……なんてね。
ルカさん、復縁話はせずじまいだったな。酔っぱらって忘れちゃったのかな。
それに今日、バレンタインデーなのに。彼女より俺を優先させてよかったんだろうか。
まあ、平日だし。彼女とは先週末に会ったのかもしれないな。
ルカさんにとって、今日という日付にそんなに大きな意味はないのかもしれない。
でも、俺はうれしい。愛の日に、ルカさんに自分の作ったチョコレートを贈れる。
「自分で食べる」も、嘘じゃなかったし。
チョコレートを食べられないはずのルカさんが、ビジューのチョコレートなら、食べられる可能性がある。
そして何より、「食べたい」と言ってくれた。
俺は、十分に幸せだ。
そういえば、あの「やっぱり」は何だったんだろう。
「『やっぱり』あれはお前だったのか」?
「『やっぱり』その時だったのか」?
「『やっぱり』……」うーん。
いいか、別に。どうでも。
とりあえず風呂に入っておくことにした鳴神は、守口からのバレンタインプレゼントを開けた。いくつか入っているミニボトルの中からシャンプーとリンス、ボディソープを選ぶ。キャンディのように個包装された球状の入浴剤もひとつ、手に取った、
まったく、どこから手に入れてきたんだか。まあ、別に難しいことではないだろうが。
柑橘系の芳香を漂わせる品々を手に、地についていないような足取りで、バスルームへと向かった。
バレンタイン用詰め合わせのいちばん小さな箱と同じ、四種類のボンボン・ショコラを精魂込めて作り上げた由井は、それぞれの中からいちばん出来のいいものを一粒ずつ選び、丁寧に箱に収めた。あとは持って行くばかりである。
バレンタインの赤い箱はもう切らしてしまったから、普通の化粧箱だけど。ルカさんの本命は別にいるんだから、むしろこの方がいいだろう。
……待てよ。
ルカさんに食べさせたい一心でこれ、作ったけど。
匂いだけであんな顔になるのなら、食べたらもっとすごい状態になるんじゃないのか?
その時、俺の理性は耐えられるのか?
大仕事を終えた安堵とこれまでの寝不足により、うっかり風呂で居眠りして溺れかけた鳴神。のぼせふやけた彼の身体が適度に冷めた頃、チャイムが鳴った。
いそいそと出迎えると、自分と同じく部屋着に着替えた由井が、小さな箱を持って立っていた。
「風呂、入ってきたのか」
短い黒髪は、まだ湿気を含んでいるようだ。以前にも見たことのある姿なのに、自分の心持ちが違っている今、自然と鼓動が早くなってしまう。
「はい。二回もシャンプーしたから、もう匂わないでしょう?」
その台詞で、由井が移り香を気にしてくれたのだとわかった。これから本体を食べようというのに無意味な気もするが、自分の考えていたものとは違っていた意図に、鳴神は赤面した。
「あれ、まだ匂ってるかな」
「い、いや、大丈夫」
「はい、これ」
濃い茶色の地に金で「BIJOU TOKYO」のロゴが箔押しされた、シンプルだがこだわりの感じられる箱。
「ありがとう」
うれしさをこらえきれず、思わず顔がほころんでしまう。
そのまま動かずにいる由井を、鳴神は不思議に思った。
「上がらないのか?」
「……じゃあ、お邪魔します」
由井は泣きたい気持ちで靴を脱いだ。
だめだ。全然だめ。
渡すだけ渡してさっさと逃げようと思ってたけど、顔見ちゃったらもう無理。
移り香が残らないように体中洗いまくって来たのに、なんか赤い顔するし。
しかも自分も風呂上がりでしっとりつやつやでいい匂いさせて、そんな花が咲くみたいな笑顔まで見せちゃって、何この人。俺のこと殺す気? なんの我慢大会だよこれ。
鳴神がリビングのソファに座ると、由井はソファの前のガラステーブルを挟んで、向かい側に腰を下ろした。
隣に来てもいいのに、なんでそんな遠くに?
また不思議に思いつつも、自分もソファから降りてラグの上に腰を下ろす。箱をテーブルに置き、ドキドキしながら蓋を開けた。
「きれいだな」
艶やかな、宝石のようなチョコレートが、四粒。
「どれが、アルザス?」
由井は目を丸くした。どうして知っているんだろう。ルブランにでも聞いたんだろうか。
「これです」
指差されたすらりと細長い一粒を、鳴神は迷わず手に取り、口元に持っていった。香りが鼻に届いたのだろう、目元に朱が差してくる。なんて素早い反応だ。
まるでキスでもするように、ボンボン・ショコラの角へと口を寄せた彼は、まず、ほんのすこし、かじった。それだけでも、じわじわと頬の赤みが増し、瞳が潤んでいくのがわかる。
見たらまずいのはわかっている。でも、ここまで来たら見ないわけにいかない。製作者として、自分の作品のもたらす結果を見届けたい。でも。
「ルカさん、あの、無理しないでね」
由井の言葉が届いているのかいないのか、彼はそのばら色の唇を開き、三分の一ほどをかじり取った。口の中で転がしている。
数瞬後、みるみる顔が赤くなった。
「うわ……えっ」
あわてる由井の前で、鳴神は、残りを全部口に放り込んでしまった。思わず身を乗り出す。
「ルカさん!? 大丈夫?」
「ん……」
完璧なテンパリングによって結晶をβ型に整えられたカカオバターの融点は、32〜36度。常温で美しく艶のある固形を保つチョコレートは、人の口腔で体温に包まれれば、すみやかに溶解を始める。やわらかくとろけて舌の上に広がり、味覚、嗅覚、触覚に至福の刺激を与え、その後、体内へと浸み込んでいく。
「――ああ、」
目を閉じ、我が身をかき抱く姿は、湧き上がる何かをこらえているように身悶えた。
「すごい」
吐息のような声。長いまつげの下の濡れた瞳と、がっちり目が合った。激しいデジャヴ。しかも、前よりもさらにうっとりと、陶酔した表情をしている。
「もっと……」
絶対、止めたほうがいいと思うのに。この酔っぱらいに、逆らえない。
「もっと、欲しい」
逆らえるものか。己の技と心の結実を、こんなにも狂おしく求めてくれる者に。
「――どれ?」
「アラタ」
「は?」
心臓が止まるかと思ったが、すんでのところで「ジャポン」だと察した。ジェレミー・ルブラン、次回出勤時には問答無用で一発殴る。
ご指定の一粒を、由井が取り上げると。
鳴神は、すいと手を伸ばしてその手首をつかみ。
思いがけず強い力で引き寄せ、自分の口元まで持ってきて。
親指と人差し指に挟まれたチョコレートを、赤い唇で、つまみ取った。
「……!」
唇が開き、「アラタ」が吸い込まれていく。美しい歯並びの間に、ちらりと赤い舌がのぞいた。
そのまま、とろけそうな顔で「アラタ」を味わっている。
固まって動けない由井の前で「アラタ」を咀嚼し終えた鳴神は、自身の右手がつかんでいる手を、とろりとした目で見つめた。
繊細なショコラを生み出すことが意外に思えるほどの、大きな手のひら。その長い指先に、ほんのすこし、先ほどつまんでいた「アラタ」の色が移っている。
それを。
この人ときたら。
――――舐めた。
「……だめだ」
……何が?
「ルカさん、俺ルカさんのこと好きなんです。ものすごく好きなんです」
うん、知ってる。
「ごめん、酔ってるだけだってわかってるのに」
なんで謝る。
「でもだめだ。あんたエロい、エロすぎる。ひどい」
なんだそれは。
「なんなんだよそのエロい顔は! しかもなんで舐めんだよ、俺殺す気かよ! 彼女いるくせにそんな顔してんじゃねーよこっちは死ぬほど我慢してんだよたまんねえんだよ限界なんだよ!!」
「――新、ごめん」
もはや態度を取りつくろえなくなってしまった由井の悲痛な叫びに、鳴神は遅まきながら、大きな問題を積み残していたことに気づいた。
「言い忘れてた」
ぼやけていく思考能力を引きとめながら、言葉をつむぐ。
「あの、女。あれ、姑」
目を見開く由井。
「あれが!?」
「あれが」
「じゃ、戻ってきてくれてうれしいって……仕事!?」
「そう。だから……、問題ない」
「問題ない」?
……問題、ない?
信じられないという表情でそばに近寄ってきた由井に、鳴神は潤んだ瞳を向けた。
いちばん大事なことを、まだ言っていなかった。
言わなければ。ちゃんと。
「ルブランに、聞いたんだ」
「『アルザス』は、『ルカ』だろ」
「――はい」
「ありがとう。うれしかった、すごく」
手を伸ばし、頬に触れる。
「俺も、お前が、好きだ」
後ろの壁に、時計が見える。
そろそろ、日付が変わろうとしている。だが、まだ。
「バレンタインデーだ」
「お前には」
「俺を、」
「やる」
「もらう!!」
由井は即答し、熱い身体を力いっぱい抱きしめた。
「返せって言われても返さない!」
……何かこういう時に言うべき日本語があった気がする。なんだったか。
ああ、そうだ。
「男に二言はない」
「ルカさん、すっげえかっこいい」
感激と同時に変なツボも押されて、泣き笑いの顔になってしまった。