パズル (3)


 月曜2限、情報処理論。受講生の多い教養科目用の大教室は、授業開始前でまだざわついている。後方寄りの座席の一角に、目当ての姿を見つけた。
「うーっす」
「おはよ」
冴子は淡いグリーンのワンピースに黒レースのカーディガンを着ていた。何気なくその鎖骨の辺りを見て、あれ?と思う。
「冴子、お前ここにほくろなかったっけ」
指でつついたら、
「ないわよ。誰と間違えてんの?」
「いででで」
手加減なしで頬をつねられた。
「まったく、女の前でほくろとかしみとか言うんじゃないわよ」
「しみなんて言ってねえよ」
「いま言ったでしょ」
「すいません」
今度は両頬をつねられた。
 冴子とは今年二月、スキー旅行で知り合った。俺のバイト仲間・前田と同じ経済学部という繋がりで参加していたこいつは物怖じしない性格で、ガタイが大きく目つきもよろしくないので女の子に敬遠されることも多い俺に、初対面から遠慮なく話しかけてきた。その気安さにすぐ意気投合し、以来恋人として付き合っている(前田には恋人同士というより夫婦漫才コンビのようだと言われるが)。学部違いの俺たちが共に履修している科目は月曜2限のこれしかない。終わった後は一緒に昼飯を食べるのがいつものパターンだ。
「ヒロ、土曜はずいぶん凄かったらしいわね」
 う。
「なんで知ってる?」
「美百合(みゆり)が言ってた。あの子、大学前のアパートに住んでるじゃない。夜中にべろんべろんの前田君が転がりこんできて大変だったって。同じ飲み会に出たんでしょ?」
美百合とは冴子の高校の同級生で、前田の彼女だ。確か文学部……ってことは、芳野さんの直の後輩になるのか。
 俺は土曜の失態について話した。案の定、きっついツッコミを一通り入れられた後、
「ところで、芳野さんって誰だっけ?」
と聞かれた。
「なんだお前、覚えてなかったのかよ」
四月にあった草野球リーグの開幕試合の時、芳野さんが顔を出してくれたので、ちょっと紹介したのだ。まあでも、もうひと月以上経ってるか。
「一回会ったことあるだろ。ほら先月、試合の後に」
すると、
「あ、あの美肌の人!」
思い出したらしいが、何やら聞きなれない単語に俺は眉をひそめた。
「ビハダ?」
「美しい肌で美肌よ」
ああ、そういえば会った後「すっごい肌キレー!」とかなんとか騒いでた気もする。確かに色は白いと思ってたけど。
「そんなきれいだっけ?」
ポロリともらしたら、
「そうよ。ったく、男の目ってのはどうしてこう節穴なのかしらね」
睨まれてしまった。
「あんなきれいな白い肌、女でもそうそういないわよ。男でしかも社会人のくせにずるいわ。宝の持ち腐れよ」
「ふーん」
そうなのか。女の視点はよくわからん。
「だいたい、ヒロが野球なんかやってるからこっちは大変なのよ。五月って紫外線がいちばん強いんだからね」
日焼けは女にとって非常に重大な懸念事項なのだと、以前こいつにとくとくと説教されて初めて知った。今日だって、五月晴れのいい陽気で俺なんかもう半袖Tシャツなのに、冴子は長袖がっちりガードだ。それでも、文句を言いながらも応援に来てくれるだけまだましかもしれない。彼女が一度も来てくれたことがないって人もいるもんな。
「草野球も全部ドームにするべきよ」
「無茶言ってんなお前」
「アンタ、紫外線対策ってどれくらい手間がかかるか知ってんの?」
また雲行きがあやしくなってきた。慌てて打開策を講じる。
「そういや芳野さん、お前のこと『きれいな彼女だね』って言ってたぜ」
「あら、いい人ねえ」
途端に笑顔。ふう、ナイス俺。
「でもほんと、いい人よね。あたしだったら行き倒れの酔っ払いなんてほっとくわよ」
「お前、それでも彼女?」
「大丈夫、ヒロなんか一晩くらいほっといたって死にゃしないわ」
俺が口でこの女にかなうわけがないのだった。

 俺の時間割では、月曜は2限から4限まで埋まっている。授業が終わったら、一昨日行き倒れた駅から電車に乗ってバイト先に直行だ。
「はよーござーっす」
挨拶しながら中に入ると、仕込み中の店長が顔を上げた。
「よう、大将。来週のソルジャーズ戦、頼むぞ」
「うっす」
居酒屋「鳥之助」は鳥料理と地酒が自慢の店。オフィス街の駅前に位置し、仕事帰りのサラリーマンの憩いの場となっている。草野球チーム「ファイヤーバーズ」の監督兼選手でもある店長は、履歴書の「特技:野球」の一言だけで俺を雇ったという噂だ。
 ロッカールームで和風の制服に着替えながら、鏡を見て、ふと思い出す。
 冴子にほくろはなかった。
 でも、妙に記憶に残っているのだ。向かって右側の首の付け根、鎖骨のくぼみの上にある、ちょっと大きめのほくろ。
 てっきり冴子だと思いこんでたんだが……違うとなると、この記憶の主はいったい、誰なんだろう。
 思いを巡らしていたところ、前田が出勤してきた。
「はよーっすヒロミちゃん」
「その呼び方ヤメロ」
「生きて帰れた?」
コンパのことを指していると気づき、事の顛末を話した。ついでにほくろの話もしてみる。すると前田は、
「お前、なんかイイもん食っちゃったんじゃねーの?」
と、軟派な顔をさらにニヤニヤさせた。
「はあ? 意味わかんね」
「ヒロが戦線離脱してから捨て犬になるまでの間に、実はかなりのタイムラグがあるってわけですよ。で、その間、ここにほくろのある謎の美女と一夜のアバンチュ〜ル」
そう言いながら、俺の説明した箇所を指差す。
「んな、まさか」
「不可能じゃねーだろ。風俗でもショートは三十分よ?」
「バーカ」
下品なイヒヒ笑いに、俺も笑いながら罵倒を返した。
「その芳野さんって人に聞いてみろよ、『俺セッケン臭くなかった?』って」
前田は馬鹿話をしつつ着替え終わると、最後に、紺色の三角巾を手早くかぶりながら言った。
「残念ながら俺はお役に立てそうにない。なぜなら同じく記憶がないから」
「てめーもかよ!」