パズル (4)


 翌日、俺は芳野さんにお礼を言うため、図書館に出向いた。実は昨日も行ったのだが、代休でお休みだったのだ。
 館内は広くて職員も多いから、たとえ出勤していてもすぐ会えるとは限らない。しかし今日は運良く、ホールに入ってすぐに、一階のレファレンスカウンターに立っている芳野さんを見つけた。隣にいる同僚の人と何やら話をしている。この同僚の人というのがえらく化粧濃い目、衣装派手目のねーちゃんで、大変申し訳ないが、男ですっぴんしかもYシャツ姿の芳野さんの方がきれいだと思ってしまった。これが美肌効果というやつだろうか。
 話が終わるのを待って近づくと、芳野さんはすぐ俺に気づいた。
「やあ、ヒロくん」
情けない姿をさらした後なので少々気恥ずかしかったが、優しい先輩はいつものように、にこやかに迎えてくれた。
「一昨日は、ちゃんと帰れた?」
「はい、ほんとにどうも、お世話になりました」
ぺこりと頭を下げ、続けた。
「あの、芳野さん。ちょっといいっすか?」

「すんません、わざわざ出てきてもらって」
「かまわないよ。ちょうどひと段落ついたところだったし」
俺と芳野さんは図書館を出て、出会うきっかけとなった因縁あるベンチに腰掛けた。失礼して煙草を取り出し、火をつける。
「それで、話って何?」
ひとつ煙を吐いて、話を始めた。ところが。
「あのですね。こないだ、俺が拾われた時、えーっと、なんか変、じゃなかったっすか」
「…変、って?」
「えー、あー。なんつーか」
いざ話し出したらば、どう説明すべきか、非常に困ってしまった。芳野さん相手に「セッケン臭かったか」なんて下品な台詞、とてもじゃないけど言えない。芳野さんって何かこう、おっとりしてて育ちが良さそうで、俺の周りにはいないタイプの人種なんだよな。風俗とか下ネタなんかとは別の次元にいる感じ。行きずりの女とやっちゃったかも、なんてこと、考えもしなさそうだ。
「別に、おかしなところはなかったと思うけど。どうしたの?」
説明しあぐねた俺は、ひとまず、ほくろの記憶について話すことにした。
 聞き終わった芳野さんは、
───ほくろ、ねえ」
と、腕を組み、あごに右手を当てた。俺がやるとただかっこつけてるだけみたいになる「物思いのポーズ」も、この人だとさまになる。
「たぶん、土曜に会った誰かだと思うんすけど」
「飲み会に出ていた人じゃないの?」
首を振った。
「いや、野郎ばっかだったし」
「女の人、なの?」
「んー、たぶん。や、冴子と勘違いするくらいなんだから、女かなって」
頭をかく俺を見て、品のいい先輩は、
「……ひょっとして、僕に見つけられる前に、誰か女の人と会ってたのかも、ってこと?」
とても驚いた顔をした。意図が伝わったようで、俺は居心地悪くうなずいた。
 芳野さんはしばらく何か考えて、口を開いた。
「飲み会は、何時からだったの?」
「えと、六時から」
「どれくらいまで覚えてる?」
「えーっと、」
最初の会場が沖縄料理の店で、制限時間が二時間ってんで確か出たのが八時過ぎ。いま思えばそこで泡盛なんか飲んだっていうのに、二時間じゃ飲み足りねーなんつって次も居酒屋へ行ったのが間違いだ。で、その途中から記憶が激しく曖昧に……むにゃむにゃ。なんとなく、この後カラオケだーとか言ってたような気もするので、二次会から三次会へ移動している間に脱落した可能性が高いんじゃないだろうか。カラオケへ行く途中なら、駅も通るし。
「僕がヒロくんを見つけたのは、十一時半くらいだったよ」
「……微妙」
二次会スタートから数えて約三時間半。何かあったと思えば思えるような長さではあるが、泥酔状態の俺にそんな真似ができたのか? いや、泥酔状態だからこそとんでもないことをやった可能性もあるけど。
「でも、そんなんでまた駅に戻るってのも変な話だし……」
もし事に及んだのだとしたら、普通その女の家で目を覚ますだろう? 事に及んでないとしても───
「ああもう、わけわかんねー!」
煙草を持たない方の手で頭をガシガシかいていると、
「落ちついて、ヒロくん」
芳野さんがゆっくり、話しかけてきた。
「覚えてないから、変な風に考えてるだけじゃないのかな。誰かにほくろがあった、っていう記憶しかないんでしょう? それでその人と何かあったとは限らないよ。ただ、すれ違っただけかもしれないし」
「…そっか」
言われてみれば当然だ。前田にからかわれて、過剰反応しすぎたかもしれない。
「もし何かあったとしても、問題があれば、相手の人からアプローチがあるはずだよ。それがないのなら、気にすることはないと思うよ」
芳野さんはそう言って一呼吸置き、えらく真面目な顔つきで俺を見た。
「それに、ヒロくんにはすてきな彼女がいるんだし。そんな不確かな記憶で悲しませたりしちゃ、だめだよ」
 ……あいつはこんなんで悲しむようなタマじゃない気もするが、お言葉、ごもっともです。
「はい。すんません」
しみじみ反省していたら、なんと、
「……ごめんね。えらそうなこと、言って」
優しい顔が、俺より反省したような表情をしていて、慌てた。
「や、もう、芳野さんの言うとおりっすから」
注意した自分の方が落ちこむなんて、ほんと、俺の周りにいないタイプの人だ。
 二本目の煙草に火をつけた時、
「じゃあ、僕、そろそろ戻るから」
芳野さんが腰を上げた。
「あ、はい。お仕事中すんませんでした。あ、それよか、来週また河川敷で試合あるんで、よかったら見に来てくださいよ」
「うん、ありがとう。行けたら行くよ」
 歩き出した芳野さんはしかし、数歩歩いて立ち止まった。振り返る。
「ヒロくん」
「はい?」
───試合、がんばってね」
いつもの、ふわりとした微笑み。でも、何かがいつもと違っている気がして、妙に気持ちを揺さぶられた。