パズル (5)


 夢をみた。
 俺は誰かを見ている。視線の先には、首から肩にかけてのライン。なめらかに浮かび上がる鎖骨の上方に、ほくろ。
 俺はそれが誰なのかを確かめようとして、視線を巡らす。だが、そこで感覚が曖昧になる。顔が見えたようで、でも誰なのかわからない。何を着ているのか、何も着ていないのか、それすらもわからない。ほくろ以外の何も見出せないまま、俺の意識は沈み、消えていく。
「……どゆこと?」
目覚めた俺は、不機嫌さ全開でつぶやいた。
 あの後、コンパに出ていた他の奴らにも話を聞いたが、収穫は無かった。怒り狂った女が不実な男と訴えてくるような気配もない。以前となんら変わりない状況に、もう気にしなくてもいいかと思った矢先の、この夢だった。
 俺は普段、夢をみない性質だ。だが、これははっきりと覚えていた。思い出してくれと言っているのか。でもその映像に、既に知っていること以上のヒントは全く無い。
「思い出してほしいんなら、顔くらい見せろっつの」
見えない相手に毒づいた。

 それから何度か同じ夢をみたが、相変わらずその正体に近づくことはなかった。もどかしさを覚えながらも、日々は過ぎる。野球やらバイトやらデートやら飲み(ちょっと控えめ)やら、二年になって始まった3〜5限ぶち抜きの工学実験やらますますわけのわからなさを増した数学やらをこなすうちに月も変わり、梅雨入りが発表された。そんな時節の、ある火曜日のこと。
 火曜は俺も冴子も5限まであり、バイトも入っていないので、いつの頃からか授業終了後にうちに泊まりに来るようになっていた。待ち合わせをし、適当に飯を食って、俺のアパートまで歩く。大学から徒歩12分、築14年1Kのアパートの住人は、大半が同じ学生だ。
「一人暮しの男子学生の部屋としては、まだましな方よね」
そう評された部屋は、壁があまり厚くない。だが、隣からも同じ音が聞こえることもあるので、たいして気にせず、そこで冴子を抱いていた。存在しないほくろのことを、多少気にかけながら。
 セックスの後のけだるい時間。煙草をふかしていたら、
「ねえ」
冴子は俺に背を向けたまま、
「私たち、友達にならない?」
さらりと、気負いもなく言った。
「なんで?」
「最近、あんたちょっと変」
「……悪い」
女の勘は鋭い。
「自覚はあるのね」
身体を起こした冴子に、俺は奇妙な夢について語ろうとしたが、
「ま、それだけじゃないんだけど。っていうか、それ以外の方が大きいんだけど」
その台詞に、遮られた。
「例えばね。今、別れるとする。会う回数は減って、泊まることも、エッチすることもなくなる」
長い髪を、マニキュアの指がかき上げる。
「でも、会えば今までどおり話をするだろうし、話す内容も変わらないと思うの」
「…そうだろうな」
「そういう関係に変わったとして、後悔する?」
───しない、気がする」
正直に言ったら、
「ったく、すこしは気を遣いなさいよ」
軽くデコピンされた。
「…でも、あたしもそう。ヒロとは全然気を遣わないでしゃべれるし、一緒にいても楽だし、まあエッチがしつこいのがちょっとアレだけど、相性は悪くないと思うのね。でも、まだそんな風に落ちつきたくないのよ」
冴子は膝を抱え、頬杖をついた。
「ベタな言葉だけど、恋愛のときめきが欲しいわけ。一緒にいるとどきどきして、何話していいのかわかんないとか、昨日も会ったのに、今日もやっぱり会いたいとか、別れるなんて話が出たら、泣いてすがっちゃうとか。あなたを殺してあたしも死ぬ、みたいな」
「こえーよ」
「まあ、それは冗談としても」
目を伏せ、続ける。
「ヒロとあたしって、最初っからこんな感じだったじゃない。それはそれでいいところもあったけど───結婚もしてないのに『夫婦漫才』とか言われるような関係は、やっぱり、嫌」
そこまで話すと、冴子は頬杖ごとこちらを向いた。
「こういう理由で別れるのって、どう思う?」
「俺に聞くんかい」
まるで他人事のような無責任な問いかけに、俺は煙を二回ばかり吐いてから、答えた。
「有り、かな」
「よね」
冴子は、散らばった服を集め始めた。俺は新しい煙草に火をつけた。
 服を着た冴子は、ポーチを持って風呂場の方へ向かった。洗面台で化粧を直すのだろう。
「まだ終電間に合うわよね」
「いけんだろ。送ってくか?」
「大丈夫よ」
声だけが聞こえてくる。
「ねえ。あたしって、嫌な女?」
「……んー」
俺は、短くなった煙草を灰皿でもみ消した。
「別に。俺は好きだな」
「ありがと」
戻ってきた冴子は、バッグにポーチをしまいながら言った。
「あたしもヒロのこと好きよ。ときめかないけど」
「ぬかせ」
 身支度を整えた冴子が玄関に移動するのを、ジーンズだけ履いて追う。サンダルに差し込まれた足が、振り向いた。
「お別れのキス、してくれる?」
いつもの俺なら、何言ってやがると笑い飛ばすところだ。だが、今日はおとなしく従った。
 細いあごを上向かせ、唇を合わせる。
───やっぱり、だめだわ」
そう言って、ほんのすこし残念そうに、笑って。俺の「元」彼女は出ていった。

 ときめき、ねえ。

 部屋に戻る。不意に、今まで気にしたこともなかった冴子の残り香が鼻をつき、俺は窓を開けた。湿度の濃い空気が入ってくる。雲は出ているものの、まだ降り出してはいないようだ。かすかなヒールの音が、遠ざかり、消えていく。
 ふと思い出したのは、真摯な顔で俺を諭してくれていた、芳野さんのこと。
 芳野さん、ごめん。
 なんか、結局、別れてしまいました。