パズル (6)


「っしゃ、しまってこー!」
「ウーッス!」
日曜朝十時、プレイボール。私設草野球リーグ「バッカスリーグ」六月第三週の公式戦は、梅雨の晴れ間、えらく蒸し暑い天気になった。
 今日は俺が先発。冴子と別れてからは初の試合になる。開始前、店長に「冴ちゃん来てないのか」と聞かれて「別れました」と言ったら、メンバー全員にえらく嘆かれてしまった。社会人の皆さんにとって、女子大生とのふれあいはたいへん貴重なものだったらしい。
 投球練習の時、いつもの位置に、つばの広い帽子をかぶった長袖の女がいないことを確認して、あらためて俺たちは別れたんだという実感がわいてきた。でも、自分ではそれほど気にしているつもりはなかったのだが。
 0−1とリードされて迎えた5回裏。2死3塁の場面で、デッドボールを出してしまった。幸い、相手の腕をかすっただけですんだものの、制球力が落ちていることは否めない。帽子をとって頭を下げる。バッターが1塁に出たところで、
「タイム!」
キャッチャーの安部さんが声を上げた。
「ちょっと球が滑ってるな。交代するか?」
「や、大丈夫っす」
あと1死。この回くらいはなんとかしのげるだろうと思い、汗をふいて、体勢を整えた。ひとつ深呼吸し、投球モーションに……

 しまった!

明らかに投げ損ねた球は打者の足元でワンバウンドし、大きく後ろに逸れた。ワイルドピッチだ。キャッチャーマスクを上げた安部さんが、逸れたボールを追いかける。サードランナーが走り出し、俺は急いでホームのカバーに入った。幸い、ランナーはそれほど足が速くない。安部さんが俺に向かってボールを投げるのと、ランナーのスライディングとがほぼ同時に起こり───

 〜〜〜〜〜〜!!

ランナーの足が、ホームベースでなくなんと俺の左足を直撃した。声も出ない衝撃に俺は、審判がアウトを宣言した直後、尻もちをついて座りこんでしまった。
「ヒロ! 誰か、救急箱!」
安部さんの声に、ベンチに座っていた何人かが飛び出してきた。試合は中断。守備についていた人たちも集まってきて、心配そうに覗き込んだり、オロオロと謝るスライディングオヤジをなだめたりしている。
 ストッキングとアンダーソックスをめくると、向こうずね全体が真っ赤になっていた。
「んー、弁慶の泣き所ってやつね。こりゃー痛いわ」
タオルをあてた上から冷却スプレーをかけながら店長、いや監督が言った。
「折れちゃいないと思うが、一応病院行った方がいいな。今日、鈴木以外に車の奴いたか?」
しかし、今日は試合後に焼肉屋で打ち上げの予定だったから、車で来ている人は下戸の鈴木さんだけだった。そしてその鈴木さんは、ピッチャーの交替要員なのだ。
「じゃあ誰か代わりに運転して」
「免許持ってきてる奴は?」
「鈴木さんの車、ミッションでしょ? 教習所でしか運転したことないんですけど」
「俺十年以上ペーパー」
「救急車呼ぶか?」
「そりゃちょっとあんまりじゃねーか」
「でも歩いて行けそうにないし」
「一回救急車っての呼んでみたいよね」
「ちょ、ちょっと……」
どんどん話が大げさになるのを止めようとした時、
「監督! この人ヒロの知り合いで、車出せるって!」
手を振る安部さんの隣に立っていたのは、なんと芳野さんだった。
 というわけで俺は、ふたたび芳野さんの車で搬送されることになったのだった。一度目は記憶にないが。

 検査と診察を終えてひょこひょこ出て行くと、ロビーで芳野さんが待っていた。
「どうだった?」
「ただの打撲で、骨も筋も異常なしっす。頑丈だからすぐ治るって」
「そう…、よかった」
心底ほっとしたという表情に、やっぱりいい人だなと思う。
「芳野さん来てくれててよかった。こんなんで救急車はいくらなんでもマズいっすよ」
俺がへらっと笑うと、芳野さんも微笑んだ。
「でも、どこらへんに居たんすか? 俺全然気がつかなかった」
「うん、ヒロくんからはちょっと見えにくい所にいたからね。そうだ、監督さんが、終わったら電話くれって言ってたよ」
「あ、はい、わかりました。ところで、あの、芳野さん…」
その時、
『久坂さーん』
受付に名前を呼ばれ、
「僕、車回してくるね」
会話は中断されてしまった。
 会計を済ませて玄関を出ると、ちょうど車が着いたところだった。そばの柱にもたれ、店長の番号を呼び出す。
『おーヒロ、どうだった』
えらく陽気な声が聞こえてきた。その周囲はガヤガヤとうるさい。
「ただの打撲で全然異常なしっす。つか焼肉食ってるっしょ」
『勝った後のビールは最高だな! 今から来るか?』
「や、酒はダメって言われちゃったんで。勝ったんすか?」
『そうそう、皆でヒロの弔い合戦だっつって』
「勝手に殺さんでください」
それから、試合の様子をひとしきり聞かされた。それまで0点だったのが嘘のように打ちまくり、最終的には6−1の大差で勝ったらしい。
『明日はバイト休んでいいからな』
「そうさせてもらいます。すんません」
『金曜は来れそうか?』
「行けると思いますけど」
『お前にケリ入れたおっさんがな、治療費払うっつーから、店に持って来いっつったら宴会入れてくれたんだ。治療費ふんだくった上に飲ませて食わせて搾り取れ』
「さっすが店長、転んでもタダじゃ起きないっすね」
『いや、転んだのはお前だから。俺は漁夫の利ってやつだ』
店長の訂正に思わず笑う。
『おっさん、チームに入って初めての試合で、だいぶ舞い上がってたらしいんだ。まあ、大目にみてやれ。野球好きに悪い奴ぁいねーからな』
店長の口癖を締めの言葉として、電話を終えた。
「お待たせしました」
車に近づくと、助手席の前で待っていた芳野さんがドアを開けてくれた。
「ほんと、いつもいつもすんません」
「いいよ、気にしないで。それより、お昼だいぶ過ぎちゃったけど、ヒロくん、おなかすいてない?」
「すいてます、けど……」
さっきの会計で、保険証なんか持ってきてなかった俺は全額実費で払わされ、いきなり金欠になってしまったのだ。一時的とはいえ痛い。やっぱり、肉だけでも食いに行けばよかったか。
「うう…にく……」
未練たらしくうなっていたら、
「ヒロくん」
芳野さんが優しい声で話しかけてきた。
「近くに、おいしい焼肉屋さんがあるんだけど、一緒に行く? おごってあげる」
「うお! マジっすか!」
「うん。でも、お酒はだめだよ」
 ああもう、この人いい人すぎる。