パズル (7)


 するりと運転席に収まった芳野さんは、慣れた動作で車を発進させた。
「そんなに大きなお店じゃないけど、おいしいよ。けっこう有名人も来てるみたい」
「へえー。よく行くんすか?」
「職場の飲み会で何度かね。店長さんとうちの課長が高校の同級生なんだって」
「そーなんすか。……ところで、芳野さん」
俺はさっき言いかけたことをもう一度言い出すべく、話をどう持っていくか悩みながら口を開いた。
「なに?」
「あー、えー…、長袖、暑くないすか?」
この蒸し暑い日に、芳野さんは長袖のシャツを着ていた。青色基調のストライプ模様は見た目涼しげだが、何色であろうと暑いことに変わりはないだろう。
「うん、ちょっと暑いけど。日に焼けすぎると、火傷みたいになっちゃうから」
「半袖、着れないんすか?」
「外ではほとんど着ないかな」
「大変っすね」
「毎年のことだからね、もう慣れちゃった。それに、仕事のときはいつも長袖だし」
 ……違う。なんか、まわりくどすぎて目的地に辿りつかない。
「着いたよ」
もたついているうちに、車の方が先に店の駐車場に辿りついてしまった。
 わかった。躊躇とか遠慮とか、そういう性に合わないことはやめ。直球ストレート。
「芳野さん」
シートベルトを外している芳野さんに向かって、言った。
「俺、あの晩何やったんすか?」
「…え?」
「ほくろ」
途端、芳野さんの表情が固まる。
「さっき、見えちゃった」
 ……今日は蒸し暑い。いつもきちっとした着こなしの芳野さんも、長袖シャツの襟元のボタンを外していた。病院に着いて、車から降りるのに、肩を貸してもらった時。シャツが引っ張られて───見えてしまったのだ。記憶通りの位置に、ほくろが。
 あの泥酔した晩、何かやらかして芳野さんに迷惑をかけたらしいということは気づいていた。が、ほくろの方に気を取られて、確認するのをうっかり忘れていた。でも、まさかこの二つが重なるなんて思ってもみなかったけれど。
「何やったのか、教えてください。お願いします」
 芳野さんは、目を伏せ、しばらく黙っていた。やがて、決心したように息をつくと、ぽそりと、つぶやいた。
「キス」

「…………えええええ?!あ、すんませんっ」
狭い車内での大声は芳野さんをひどく驚かせてしまい、慌てて謝った。すこしボリュームを落とす。
「き、キ、キス、って、俺が、芳野さんに?」
少々声の裏返った質問に、芳野さんがこくりとうなずいた。
「なにかね、的場(まとば)さんと勘違いしてたみたい」
俺はその台詞を呆然と聞いた。的場は冴子の苗字だ。いくら酔っ払ったからって、よりによってなんでそんな勘違いを───
「……あのとき、僕、ボートネックのカットソーを着てたんだ」
ほくろの位置に手をあてた芳野さんは、
「覚えていないなら、言わずにおこうと思ってたんだけど。よっぽど印象が強かったんだね、このほくろ」
と、苦笑いを浮かべた。我に返った俺が平身低頭で謝ると、
「女の人じゃないんだし、そんなに気にしないで。こっちこそ、かえって変に気を持たせるようなことになっちゃって、ごめんね」
どう考えても俺が悪いのだが、またもや芳野さんの方が俺より沈痛な面持ちになってしまった。それを見たらさらに申し訳なさが増幅されて、思わずこう言ってしまった。
「あの、俺やっぱ肉いいっす」
すると、沈痛な顔がはっとした顔に変わった。
「そんな、遠慮しないでいいよ」
「でも俺、迷惑かけてばっかで、これ以上はもうさすがに」
さらに断ると、芳野さんはすこし間を置いてから、微笑んだ。
「気にしないで、ほんとに。僕もおなかすいてるし。ここのカルビ、すごくおいしいよ?」
「うっ……」
 恥を知る心は胃袋の欲求に負けました。

 席に着いてざっと注文をすませ、ウーロン茶で乾杯した。
「そういえば、今日は的場さんは来れなかったの?」
「先週、別れたんです」
「えっ」
俺の答えに、芳野さんはひどく驚いたようだった。
「どうして? けんかでもしたの?」
「や、なんつーか」
気が合わなかったとかそういう訳じゃないので、うまく説明できずにいたら、
───まさかと思うけど、僕のこと、関係ある?」
「え?」
逆に驚いた。ああ、そういえばほくろの件も多少のきっかけではあるのか。でも、そんなことを言ったらまた芳野さんが落ち込んでしまう。
「や、それはないっすから、大丈夫……うわ、めちゃくちゃうまそう」
急いで否定していたところに、カルビにロースに牛タン、野菜盛り合わせ、サンチュなどが続々と到着し、俺の頭の中は一瞬で焼肉色に染まってしまった。
「…えーっとっすね、なんか、俺だとときめかないとか言われて」
話をしながら、焼き網に肉を並べていく。ジュウジュウといい音がして、食欲をそそる匂いが立ちのぼった。
「あいつは、毎日毎日会いたくて、会えばどきどきするようなレンアイってのをしたかったらしいんすけど、俺はそういうのより、緊張とかしなくていい気楽な関係が良かったんで。それがダメだっつーんだから、しょうがねえなあって」
「……そうなんだ」
「で、友達に戻ろうってことになりました」
ここの店は炭火で火力が強く、肉は置いたそばからどんどん焼けてくる。焼肉奉行の気がある俺は、焦げ目のついた肉を端からひっくり返しつつ、話を継いだ。
「ときめきってそんな大事っすかね」
芳野さんは、俺がすっかり無視していた野菜を並べながら、
「恋愛は、人それぞれだからね」
と、つぶやくように言った。
「芳野さんは、ときめきたい方? 楽なのがいい?」
「え…、難しいな」
キャベツを置いた箸が止まる。
「そういうのは、相手によると思うけど……」
すこしばかり長めの沈黙に、顔を上げると、色の薄い瞳とまともに目が合った。
「でも、ときめきって、自分の意志でどうこうできるものじゃないでしょう?」
そう言った芳野さんはなんだか切ない表情をしていて、妙にどきどきした俺は、
「あ、焼けてる。食って食って!」
と、芳野さんの皿に焼けた肉をばかすか放り込んでしまった。