パズル (8)


 また、夢をみた。
 肩から首にかけてのラインと、鎖骨の上のほくろ。もう、誰なのかはわかっている。でも、その表情がわからない。声が聞こえる。でも、なんと言っているのかわからない。俺の意識は沈み───
「……なんで?」
目覚めた俺は、頭を抱えた。
 昨日、この件は一応の解決をみたはずだった。行きずりの女か何かと思われた「ほくろの人」は実は芳野さんで、酔っ払った俺がなんと彼にキスしてしまい、しかもそれをきれいさっぱり忘れ去るというふざけた真似をやらかしていたのだ。そして、心の広い芳野さんはそれを許してくれた……と、思う。焼肉おごってくれたし。
 気になることはある。どうしてほくろのことなんかをこんなに強く覚えていたのか、だ。肌が白いから目立っていたのか。冴子に無いものだから印象的だったのか。それとも。
「場所、言わなかったんだよな……」
もし、俺がキスしたのが唇じゃなくて、あのほくろだったとしたら。なんか、唇よりさらに問題がある気がする。でも、冴子と勘違いしたならありえないことじゃない。そして、冴子と勘違いしたのなら───
「うわあぁ」
恥ずかしさと後ろめたさと不安と、かすかにおぼえてしまったあやしい衝動をごまかすため、朝っぱらからバスバス煙草を吸ってしまった。
 俺、しばらく図書館行けない。

 怪我は数日ですっかり快復し、また普通の日々に舞い戻った。そして月が変わり、七月。図書館に行きたくないと思っていても、そういうわけにいかない時期になってきた。中旬から前期試験が始まるのだ。
 科目の中には、試験代わりにレポート提出を課しているものもある。手持ちの資料や回し合っているノートだけではやはり足りない。昼休み、気後れする自分を叱咤して久々に図書館に向かった俺は、いわゆる「オンシーズン」であるこの場所の人口密度の増え方にうんざりした。いつもは楽に席の取れる閲覧テーブルや自習用の机はほぼ満員だし、コピー機の前には有名ラーメン店もかくやの行列が続いている。まあ、自分もそのうちの一人なので文句も言えないが。
 階段を上り、二階の開架閲覧室に向かう。検索端末の並ぶロビーの右手には貸出カウンターがある。ロビーを突っ切って前へ進むと、左右に伸びる通路を挟んで、正面は辞書や新刊書、雑誌のコーナー。左右の通路はそれぞれ、書架のずらりと並ぶ大きな区画へと続いている。大雑把に言って、右は理系、左は文系の図書が置いてあるのだそうだ。
 芳野さんが貸出カウンターの中にいるのが見え、どきりとした。だが、ここにも何人もの学生が本を抱えて並び、手続きを待っている。芳野さんは俺に気づいた様子だったが、忙しそうだし、なんといっても後ろめたいので、声はかけず、会釈だけして通りすぎた。
 微妙に跳ねる心臓をなだめながらカウンター前を右折し、通路を歩いていた時。
「ヒロ君!」
女の声に名前を呼ばれた。振り向くと、
「おう、佐倉(さくら)」
「久しぶりー。元気?」
冴子の親友兼前田の彼女、佐倉美百合がいた。佐倉は冴子よりもっとさばけた性格で、冴子や前田を抜きにしても友人として気軽に話のできる相手である。俺の元彼女とは対照的に、日焼けした肌にショートカットのボーイッシュなタイプだ。
「聞いたよ、冴ちゃんと別れたって?」
「ああ」
「あたし最初信じらんなかったよー、二人すっごいお似合いだったのに」
「んー、でも別れたつっても、友達だし」
「そこもわかんないのよねー、仲悪くないのに別れるなんてさ」
佐倉はあきれたように言ったが、別れたこと自体に関して異論がある風ではなかった。
「ま、いいや。あのね、ちょっとヒロ君にお願いがあって」
佐倉が俺に頼みごととは、珍しい。
「なんだ?」
「あたし今ね、一般教養でうっかり哲学なんか取っちゃってるんだけど、これがねー、もう何言ってんだかさっぱりわかんないの。しかもその教授が、去年までドイツに留学してたって人で、周りに授業受けたことのある人がいなくて」
「……はあ」
それが、おそらく哲学とはいちばん縁遠いところで生きている俺と何の関係があるのか。
「ヒロ君、卒業した文学部の先輩に知り合いがいるって聞いたんだけど、ホント?」
「え」
また、どきりとしてしまった。ええ、向こうに見えるカウンターの中で貸し出し手続きしてる人ですよ。今はとても顔を合わせづらいんですが。
「…うん、一応」
消極的な返事にも、佐倉は目を輝かせた。
「そう! あのね、もしその人が森川って教授の哲学取ってたら、ノートか何か持ってないか、聞いてみてほしいんだ」
「いいけど……、もし取ってても、ノートなんか残ってねーと思うけど」
ちょっと抵抗してはみたが、あまり効果はなかった。
「うん、ダメモトでいいから。ホントもう、藁をもつかむ状況なの。それで、聞いたらメール入れてくれる?」
「俺、佐倉のアドレス知らない」
「あれ、そうだったっけ。じゃ、ケータイ貸して」
佐倉は流れるような操作で、俺と自分の携帯にそれぞれアドレスを登録した。
「じゃ、お願いね。お礼はするから」
 佐倉と別れ、カウンターの方に目をやると、
「あれ」
芳野さんがいない。すこし後戻ってみたら、カウンターの端から出ていくところだった。そのまま階段に向かっている。
「休憩かな」
どうせ聞かなければならないなら、早いうちにさっさとすませてしまうか。俺は芳野さんの後を追った。
 芳野さんは階段を降りると、エントランスの自動ドアから外に出て、右に進んだ。ガラス張りの壁越しに、建物の角を回り込んでいくのが見える。どうやら図書館の裏の方に向かって歩いているらしい。そちらへは行ったことがないが、ともかく後をついていった。
 初めて見た図書館の裏側は、人気のない狭いスペースで、後ろには舗装された急斜面がそびえていた。ここのキャンパスは山を切り開いて造られているので、やたら高低差のある場所が多く、この斜面もかなり高い。上は通路になっているはずだが、通路の高さは二階の閲覧室と同じくらいで、両脇にイチョウ並木があるので、端に立って覗き込まなければここは見えないだろう。
 芳野さんはつきあたりにあるボイラー室と斜面の間にいた。煉瓦色の壁に背を預け、うなだれている。どうみても人目を避けている様子に、声をかけるのをためらっていたら、最悪のタイミングで携帯にメールが着信してしまった。…たぶん佐倉だ。
 電子音にびくりと顔を上げた芳野さんは、俺の姿に明らかに動揺した様子だった。
「ヒロ、くん」
かなり気まずかったが、今さら隠れるわけにもいかない。意を決して近づいた。
「えっと、休憩中すんません。ちょっとお願いが……」
そこまで言って、止まった。

 涙が。

 顔の下半分を覆った右手。その指を、甲をつたって、涙が。ほろほろとこぼれていく。
───ごめん」
芳野さんは、顔をそらして。
「いまは、ちょっと」
かすれた声で、つぶやいた。
 俺は、黙ってその場を立ち去った。


 試験前の大事な授業はちっとも頭に入らなかった。バイト先ではミスを連発し、怒られるを通り越して心配されるほどだった。
 ぐったりした身体を引きずって、部屋に帰った。後ろ手に鍵をかけ、そのままドアにもたれる。
 目をつぶると、見える。
 芳野さんが泣いている。

 確実な、既視感。
 俺は、以前にも同じ光景を見たことがある。

 ───泣かせたのか。
 あの人を。

 靴を放り出すように脱ぎ捨て、服を着たまま風呂場に飛び込んで、思いきりシャワーの栓をひねった。激しい音とともに落ちてくる水を頭からかぶる。

 まさかと思っていた。ありえないと思っていた。
 でも。
 キスだけじゃなかったのかもしれない。
 もっとひどいことをしてしまったのかもしれない。

 思い出させてしまったのか。
 黙って、隠して、忘れようとしてくれていたことを。

「……クソッ」
壁が揺れるほどに拳を打ちつけた。胸がぎりぎりときしむ。

 俺は最低な人間だ。
 この後に及んでまだ思い出せずにいる。
 芳野さん一人に重荷を負わせて。


 身体が冷えきって、何も考えられなくなるまで、降り注ぐ水の下に立ち尽くしていた。