パズル (9)


 翌朝、俺はどんよりと雲を背負ったまま、大学に向かった。できることなら行きたくないが、今日の1限は必修の流体力学。試験前のこの時期に休むわけにはいかない。熱でも出ればあきらめもついたものを、頑丈な身体が恨めしい。
 学部棟の教室に入ると、ここも図書館と同じく、人口の増加により前方しか席が空いていない状況だった。うんざりしながら見渡すと滝沢が手を振っていたので、その前の空席に座ることにする。滝沢は工学部内ではいちばん親しい友人で、例のコンパにも出ていた男だ。
「ヒロお前、すんげー顔色悪いけど大丈夫か?」
開口一番そう言われた。
「まあな」
教科書を用意しながら、悪い顔色で返事をする。
「なあタキ、酔っ払って誰かに迷惑かけて、それを全然覚えてないって時、どうする?」
滝沢は俺の唐突な質問に意表を突かれた様子だったが、すぐに答えた。
「ええそりゃ、相手の出方しだいだろ」
「相手が、何も言わなかったら?」
「オトナだな。知らんふりしてくれたんなら、甘えとけばいいんじゃねー? 相手も気ぃ遣ってるわけだし、蒸し返す必要ないだろ」
 そう。そこなんだ。
 俺は事実をはっきりさせたいけど、芳野さんがそうだとは限らない。芳野さんは最初から、俺に何も言おうとしなかった。むしろ、隠そうとしていた。それを暴くような真似をしてもいいのだろうか。───忘れたいほどひどいことをしたのかもしれないのに。
「でも、相手が何も言わないのにどうして、迷惑かけたってのがわかんだよ」
「…それは、まあ、態度とか……」
口ごもっていると、滝沢は頬杖をついて、
「何したんだか知んねーけど」
あきれたような口調で言った。
「お前、女と付き合ってる時は、酒はほどほどにしとけよ」
「あ?」
「あん、それでフラれたって話じゃねーの? あの経済の彼女に」
「ぜんっぜん違う」
「君たち、私はとっくに来てるんだけどね」
振り返ると「微笑みながら不可をつける男」河田助教授が教壇の上から微笑んでいて、慌てて体勢を整える俺たちだった。

 昼休み。学食で冷やし中華をつつきながら、俺は一人物思いに沈んでいた。
 真相を知りたい気持ちはある。いや、「ある」なんてもんじゃないくらいに知りたい。そして、自分の非を認めて、誠心誠意詫びたい。
 でも、それはきっと、芳野さんの望んでいることじゃないんだ。
 芳野さんはあの日の後も、変わらぬ態度で俺に接してくれていた。それは彼がそう望んだからだろう。俺の犯した罪は水に流して、今まで通り付き合っていこうとしてくれたんだ。
 優しい人だ。
 やはり、これは蒸し返すべき話題じゃない。これ以上芳野さんを傷つけたくない。
 ───あの人に涙を流させるのはもう、嫌だ。
「ヒロくん」
「はいっ」
今まさに考えていた人に名前を呼ばれ、俺はえらく大きな声で返事をしてしまった。
「あれ、ごめん。びっくりした?」
「や、そんなことないっす」
ほんとは喉から心臓が飛び出そうなほど驚いたが、胸を押さえつつ、なんとかそう答える。
「ここに来れば、いるかなと思って」
そう言って微笑んだ芳野さんに、俺の心臓は再び跳ねた。
 俺を探していたのか。なぜ。
 ひょっとして、真実を伝えに───か?
 しかし。
「昨日は、みっともないところを見せちゃって、ごめんね」
芳野さんは、その微笑みに憂いをにじませた。
「ちょっと、ショックなことがあって」
「……大丈夫っすか?」
我ながら白々しい。でも、他に言える台詞は、無い。
「うん。もう、忘れることにしたんだ」
目が、伏せられる。
「悩んでも、どうしようもないことだから」
俺は、何も答えられなかった。芳野さんはさらりと表情を切り換えた。
「ところで、昨日言ってたお願いって、なに?」
「えっ」
 まさか。
「それで、探しに来てくれたんすか?」
「そうだよ」
 ……この人は。あの状況で、そんなことまで覚えていてくれたのか。
 胸に熱いものを感じながら、佐倉の依頼を告げてみた。無理だろうと思っていたのに、返ってきたのは意外な答えだった。
「二年の時、受けてたよ」
「マジっすか?」
「森川教授の哲学だよね? うん、ノート、残ってると思う」
芳野さんは頬に手を当て、思い出すように目線を上にやった。
「今日帰ったら探しておくよ。明日、図書館まで取りに来てくれる?」
 こうして俺は、佐倉に貸しを作ることになった。
 そして、これ以上あの時の事情を詮索しないと決めた。