パズル (10)


 準備、本番と騒々しく時は過ぎ、ついに七月最後の週。二週間に渡って続いた前期試験は、やっと終わりを告げた。俺は佐倉と一緒に図書館に足を運んでいた。芳野さんにお礼を言いたいから連れて行けと、やたらうるさかったからだ。
 試験最終日の夕方、一時は掃いて捨てるほどいた学生も驚くほど減っていた。目当ての人物は一階のレファレンスカウンターにいたが、先日とはうって変わってのんびりした様子だ。
「やあ、ヒロくん」
芳野さんは俺の横にいる佐倉をちらりと見やってから、いつものにこやかな顔で話しかけてくれた。
「試験、どうだった?」
「まあまあっす」
「そう」
芳野さんの態度は変わらない。それはとてもありがたいことのはずなのに、かすかに感じるこの痛みは、なんだろう。
「あなたが、佐倉さん?」
手に持っていたノートで身元がわかったのだろう、芳野さんは佐倉にも声をかけた。
「はい、そうです! どうも、はじめまして」
「はじめまして」
佐倉はちょっと浮かれた口調で挨拶すると、ノートを差し出した。
「これ、どうもありがとうございました。とっても助かりました!」
「そう。お役に立ててよかった」
「あの、何かお礼がしたいんですけど」
「別に、かまわないよ」
はしゃいだような佐倉の態度に、妙な不快感を覚えていたところ、
「えっと、あの、今から試験の打ち上げするんですけど。よかったら、一緒にいらっしゃいませんか」
「え」
芳野さんとハモってしまった。
「ノートのお礼に今日、ヒロ君に一杯おごることになってるんです。だから、よかったらご一緒にどうかなー、なんて」
この急な申し出を、芳野さんはやんわり断った。
「どうもありがとう。でも僕、今日は午後のシフトだから、閉館までいなくちゃいけないんだ」
「えー、そうなんですか。残念」
「気持ちだけいただいておくよ」
「じゃあ、また今度」
そのやりとりにさらにむかむかしてきた俺は、
「佐倉お前、人の仕事の邪魔すんなよ」
思わず口を出してしまった。
「すんません芳野さん、図々しい奴で」
「別に、気にしないよ」
「そうですよねえ」
調子を合わせる佐倉をじろりと睨んで、
「ほら、もう始まってんだから、行くぞ」
と、促した。
「じゃあ、また。夏休み、楽しんでね」
ふわり、と笑った芳野さんの顔が急に遠く見えて、胸の奥がずきりと痛んだ。これから、約二ヶ月の長い長い夏季休業。ひょっとすると、芳野さんと顔を合わせることはないかもしれない。
 ───なんだろう。この失望は。

 正門からまっすぐ続く坂道を下る。今日の会場はその突き当たりにある居酒屋だ。最後の5限まで試験で埋まっていた上に寄り道した俺たちは遅刻者だった。
「佐倉お前、どういうつもりだよ」
「何が?」
「打ち上げに芳野さん誘うなんて」
俺の咎める口調にも、佐倉はちっとも悪びれずに言った。
「えーだって、お話ししてみたかったんだもん。だってあの森川のわけわかんない講義、すっごいきれーにノート取ってたんだよあの人! 他の子たちもみんなびっくりしてた」
そして、また浮かれ口調で続けた。
「優しそうだし上品だし、お肌白くてスベスベだし、思ってた以上に素敵な人だった〜。もーあたし絶対芳野さんのファンになる〜!」
「お前、前田はどーなんのよ」
「やーね、それとこれとは話が別よ」
からからと笑う佐倉の横を、俺は苦虫を噛み潰した顔で歩いていた。

「久しぶり」
打ち上げメンバーは主に去年スキーに行った面子で、冴子も来ていた。
「また黒くなったわね。相変わらず野球バカ一代?」
「また白くなったんじゃねえ? 相変わらず美白バカいち…」
額にチョップをくらった。やっぱり、別れても俺たちは変わらないみたいだ。
 それからかなりの時間騒いだけれども、結局あまり酔えないまま、店を出た。次はカラオケだが、けっこうな人数がいるので、入れる店を探しに行った本日の幹事・前田を皆で待つことにする。
「ねえ」
佐倉が冴子に話しかけた。
「冴ちゃん、ひょっとして新しい彼氏できた?」
「わかる?」
「うん。やっぱ変わってるよね、香り」
これが元彼の前で話すにふさわしい話題かどうかはひとまず置いておくとして、思い出したことがあった。
「冴子お前、俺んちに香水忘れてったろ」
鞄のポケットを探る。
「返そうと思って入れたまま忘れてた」
取り出すと、佐倉がつぶやいた。
「あ、きれい」
なめらかな流線型を描くデザインのボトルに詰まった液体は、海を思わせる澄んだ水色で、確かにきれいだった。俺が捨てるのをためらったのは、そのせいもあった。高そうだったし。
 しかし冴子には、
「バカねえ、置いてったのよ」
と、一蹴された。
「あたしの香りは男に合わせて変わるの」
 はあ、さいでっか。
「ヒロ使ってみる? 一応ユニセックスよ、それ」
「ユニ…?」
「男女兼用ってこと」
 ───その言葉の意味を理解した次の瞬間、俺は蓋を開けていた。
「やだ、冗談よ。あんたみたいな野球少年には似合わないから止めときなさい」
冴子の台詞を無視して、鼻を近づける。

「思い出した」

「何を?」
「俺、次パス」
言い捨てて、踵を返した。


「おい、全員入れるってー……あん?」
必死で坂を駆け上っていた俺は、戻ってきた前田が冴子と交わした会話など知る由もなかった。
「どうしたんだ? あれ」
「さあ。何か大事なこと忘れてたんじゃない?」