パズル (11)


 坂道を駆け上がり、正門を抜け、石造りの階段を一つ飛ばしで上って。
 息を乱しながら図書館前に着いた時にはしかし、閉館時刻の十時を既に回ってしまっていた。館内の明かりは全て消え、常夜灯に照らされた自動ドアの前には「閉館」のプレートと書籍返却用ポストが設置されている。
 もう、帰ってしまっただろうか?
 そう思った途端、めまいがして、がくりと膝を折ってしまった。ぜえぜえと肩で息をする。アルコール摂取直後の全力疾走、めまいもしようというものだ。
 あのマンション、ここからどれくらいだろう。
 もう一度、辿りつけるだろうか。
 鼻の下の汗を拭いて、立ち上がろうとした時だった。
「きみ、だいじょうぶ?」
はっとして顔を上げると、求めていた姿がそこにあった。
「……ヒロくん」
芳野さんの目はこれ以上ないくらいに見開かれ、街灯の薄明かりの中でも、その驚いたさまが見てとれた。
「佐倉さん、は?」
「…なんで佐倉?」
突然示された思いもよらない人物の名前に疑問と不快を覚え、しかし、その名前が出た理由と思しき感情を察した。それは、今から確認しようとしている感情だ。
「あいつは、ただの友達っすから」
膝を払って立ち上がる。
「俺、思い出した」
握りしめていたボトルを差し出して、
「芳野さん」
まっすぐに相手を見た。
「俺のこと好きって、ほんと?」
俺の視線の先にある顔が、泣き出しそうにゆがんだ。
「忘れてって、言ったのに」


『忘れて』
『忘れて、ヒロ』


 そう。
 忘れてたんだ。
 「忘れて」と言われたから。
 俺の上で、悲しそうに涙を流す芳野さんに。


 芳野さんは、揺れる液体をしばらく見つめてから、手に取った。手のひらに収まったボトルを眺める瞳は、海の色を透かして、別のものを見ているみたいだった。

「……偶然、だったんだ」

「気に入って買ったけど、もともと、そんな頻繁に身につける習慣じゃなくて」

「的場さんと同じものだって知ってからは、なおさら」

「あの日は、友達の誕生パーティで。久しぶりに、つけていて」

「勘違いしたヒロくんは、僕に、キスした」

「理由はすぐにわかって―――、だけど僕は、誘惑に負けてしまった」

「僕は、男の人しか愛せない人間で」

「ヒロくんは、僕の理想のタイプの人で」

「でも、ヒロくんとそういう関係になるつもりはなかった。その時までは」

 彼が、恋人にするような優しいキスをするから。
 恋人のふりをしてしまった。
 動けない彼の上に自ら跨って。
 天に昇って、本音を叫んで。
 地に堕ちて、忘れてくれと懇願した。

「次の日、ヒロくんはほんとに、忘れていて」

「僕は、ずるいことを承知で、黙って、今まで通りにつきあっていこうとした」

「でも」

「自分がそう望んだくせに、忘れられたことが悲しくて」

「ほくろのことだけでも、覚えててくれたのがどうしようもなくうれしくて」

「ヒロくんのことを考えるだけでどきどきして」

「毎日でも会いたくて、話をしたくてたまらなかった」

「僕はそれを必死で隠して」

「試合の時も、見つからないように陰からこっそり覗いてた」

「だって僕は、ヒロくんの携帯番号もメールも知らない」

「僕は、ヒロくんの友達でさえなくて」

「嫌われたくなかった。ただの知り合いでいいから、そばにいたかったんだよ」

―――もう、無理だ」


「好き。ヒロが、好き」


 あちこちに散らばっていたパズルのピース。
 全部だ。
 全部繋がった。

 ――――――参った。


 初恋の時以上に緊張していた。
 自分が、息をしているのかどうかもわからない。
 相手が男だなんてことも、もうどうてもよくて。
 伸ばした手がその先にある肩に触れた瞬間、電流が走ったようにしびれた。
 気がつくと、腕の中に、暖かな身体。
 それをまるで、そうしていないと消えてしまうかのように、強く強く抱きしめて。
「…苦し、」
 あっ。
「すんません」
慌てて、腕をゆるめる。息をついた芳野さんは、
「……やさしいね」
まだ、泣きそうな顔をしていた。
「そんな顔しないでください」
今ならわかる。この沈痛な表情は、俺の過ちに耐える顔じゃなくて、自分の過ちを責める顔だったんだ。
「俺も、芳野さんが好きだ」
腕で包んだ身体が、びくりと固まった。
―――だめだよ」
「なんで」
「なんで、って」
「だめじゃない。逃げないで」
一度ゆるめた腕に、再び力を込める。
「今度はちゃんと、芳野さんにするから」
呆然と俺を見つめる薄い色の瞳。夜目にも目立つ白肌の上の赤く、ほのかに開いた唇に、自分の唇を重ねた。
 熱い。
 身体中を駆けめぐり跳ねまわる血の熱さを感じながら、頭の片隅で、冴子が最後に求めたのはこれだったのか、と思った。