入れ子の夢 (1)


 手帳を探しに出かけたデパート。脂粉の香りに満ちた、いつも素通りする化粧品フロアの一角で僕、芳野侑は立ち止まった。ウィンドウのディスプレイに目を惹かれたからだ。
 パールや貝殻を上品に飾りつけた白い空間に、いくつかの香水瓶が配置されている。形はさまざまだったが、共通しているのは中の液体が青色をしていること。その中でも特に僕の心を捕えたのは、中央にある、「MARE」と銘打たれたボトルだった。なめらかな曲線で成形されたそれは大海の波を思わせ、中身のマリンブルーとあいまって、僕に潮騒を聞かせた。
「男性でも使いやすい香りですよ。試されますか?」
品のいい笑みを浮かべた店員が、テスターを細い紙にスプレーして渡してくれた。甘さを抑えた、爽やかなマリンノート。
「マーレと読みます。ラテン語で『海』という意味なんですよ」
その言葉を聞いて、僕は購入を決意した。

 海は、好きだ。
 僕のようなはみ出し者も、他の人たちと同様、ただのちっぽけな存在として包んでくれる。

 ボトルはリビングにあるローボードの上に飾った。もともと、あまり香りを身につける習慣はなく、インテリアとして置きたいという気持ちの方が強かったのだ。
 それでもたまに、休日、出かけるときに使ったりしていた。だがある時、同じ香りをつけている女性に会ってからは、それもなくなっていた。


 その土曜日は友達の誕生パーティだった。心持ちお洒落をした僕は、出がけにふと思い立ち、飾り物になって久しいボトルのキャップを開けた。ほんのすこし、心に波が寄せるのを気づかないふりで、海の香りを身にまとって家を出た。
 会場はその友達が贔屓にしているジャズバー。客の半数以上を常連が占めるような小さな店には、グランドピアノがいつ見ても窮屈そうに収まっている。
「あらー侑ちゃんいらっしゃい、相変わらず細っこいねえ、ちゃんと食べてる?」
名物の肝っ玉ママは、たまにしか来ない僕のことも「侑ちゃん」と呼んで可愛がってくれていた。
「おふくろと比べたら誰でも細いって」
「やかましッ」
一緒に店をきりもりしている息子さんとのかけあいも、名物だ。
 パーティといっても、特に貸し切りというわけでもなく、いつもの流れの中にシャンパンとケーキが用意され、「ハッピーバースデー」がジャムセッションされるといった具合の、肩の凝らないくだけたものだった。しかも主賓自らがピアノを弾き、喝采を浴びていた。

 パーティはとても楽しかったけれど、翌日仕事だった僕は、途中で切り上げて帰途についた。
「……え?」
駅に着き、改札を出て、我が目を疑った。見知った顔が、切符売り場の壁にもたれて座り込んでいる。
 そばにかがんで確認する。間違いない。
「ヒロ、くん?」
───ん」
肩をゆすると、薄目を開けたが、焦点が合っていなかった。濃いアルコールと煙草の匂いが鼻につく。これは、送っていくのも無理そうだ。
 うちに、運ぶか。
 駅員に事情を話して、車を取ってくることにした。僕のマンションは、駅から徒歩5、6分といったところ。酔っ払い+ワンメーターなんてタクシーも嫌がるに決まっている。明日のことを考え、アルコールを最初のシャンパンだけにしておいたのは幸いだった。大丈夫とは思うが一応、スポーツドリンクを買って、飲みながら家路を急いだ。


 最初に彼、久坂広海の名前を知ったのは、拾った財布に入っていた写真入りの学生証でだった。その時は、目つきの悪い学生だな、くらいにしか思わなかった。
 でも、直後に本物と会って、「まずい」と感じたんだ。
 僕が惹かれる要素を凝縮したような男だったから。
 そして、僕に強い印象を与えていた草野球選手と彼が同一人物だとわかって、ますますまずいと感じた。

 ヒロは、僕にないものを全て持っていた。
 日焼けしたたくましい身体。硬い黒髪。
 精悍な顔つきの中で、一見怖そうな、でも笑うと優しい目。
 良く言えば磊落、悪く言えば大雑把な性格。
 自身を取り繕うことなく、時には、こんな風に羽目を外したりもして。
 そんな、欠点に見えるようなところだって、僕には憧れだった。

 そう、「憧れ」だ。
 僕はこの気持ちをそれ以上に発展させるつもりはない。

 ヒロは僕に、ある男を思い出させる。
 僕が初めて、恋を自覚し、自身の性癖をも自覚することになった、高校の同級生。彼も野球部の人間で、キャプテンをやっていた。
 卒業式の日に、思いきって、告白した。
 『……キモい』
 彼はものすごく嫌そうな顔をして、逃げるように去っていった。
 決めていたつもりの覚悟は、現実の前にはとても足りなくて───、泣きながら家に帰った僕は、そのまま熱を出し、三日間寝込んだ。
 あんな思いをするのは、もう二度と、御免だ。