入れ子の夢 (2)


 ヒロはふらついてはいたけど、自分の足で歩くことができた。よかった。とてもじゃないけど抱えてなんて運べない。
 腕をつかんで車まで誘導し、後部座席に押し込んだ。運転席に戻って、後ろの様子を確認する。横たわる大きな身体を見た時、体内にかすかな熱が発生するのを感じた。しかし、僕はそれをエンジン音でかき消し、車を発進させた。

「ヒロくん。着いたよ、起きて」
「…うぅ……」
半分眠ったようなヒロに肩を貸し、エレベーターに乗せて、なんとか部屋まで連れてきた。だんだん重くなる身体を引きずるようにして寝室に入り、ベッドの端に腰を下ろすと、ヒロはそのまま、ばたりと後ろに倒れてしまった。
「ふう」
額ににじんだ汗をぬぐう。今日は、リビングのソファで寝よう。
 ……目を閉じた顔は、意外と、かわいい。
 思わず寝顔に釘づけになっていた視線をはがして、立ち上がろうとした時だった。
「えっ、わ」
知らぬ間に背後から回ってきた手に、肩をがしりとつかまれ、引き寄せられた。バランスを崩し、とっさに手をつく。ヒロに覆い被さるような格好になってしまった、と思う間もなく。

――――――!」
 唇を、唇でふさがれた。

 しばし呆けていた僕だったが、差し入れられた舌の感触に我に返り、弾けるように身を離した。ヒロは不満そうに鼻を鳴らして、言った。
「…なに、逃げてんだよ……、おまえ」

 瞬時に悟った。
 ヒロは僕を「おまえ」なんて呼ばない。
 ヒロは、僕を。
 ヒロは僕を、彼女と間違えているんだ。

 今の僕と同じ香りをまとっていた、きれいな女の子。
 お似合いの二人だった。
 恋人同士の彼らは、遠慮のない言葉を交わし合い、楽しそうに笑っていた。
 そしてきっと、こんな風に───

 爽やかなはずの海の香りが、僕の脳裏を赤く染めていった。
 その正体を知っている。
 ずっと目をそらしていた、嫉妬と───羨望。

 僕の理想は、今、目の前にいる。
 一度だけ。
 一度だけでいい、彼女のように、抱いてくれたら。

 ……だめだ。
 僕は今、進んではいけない領域に踏み込もうとしている。
 警告のサイレンがわんわんと鳴り響く。
 だめだ。いけない。引き返せ!

「……え?」
固まっていた僕の肩に、ふいに、大きな手が触れた。大きく開いた襟のラインから覗く鎖骨のあたり、ちょうど、ちょっと目立つほくろがある位置だ。かすかに開いた目が、ぼんやりとそこを見つめている。
「あっ、」
親指でなぞられて、寒気に似た感覚が、ぞくぞくと広がっていく。
「だめ───
 ふたたび抱き寄せられ、きつく、吸われて。
 愚かな僕は、サイレンのスイッチを切ってしまった。


 自分の胸のすぐ下にあるシャツのボタンを外し、現れた厚い胸板に頬ずりして、キスして。気持ちの高ぶるままに下も脱がせ、何も兆していないヒロのそれを、ためらいなく口に含んだ。
「ん……っ」
口の中でころがすだけで、まるで自分が愛撫を受けているかのように感じていた。ヒロが息をもらすたびにうれしくなり、舌を這わせ、指を這わせた。酔いで鈍くなっている反応に焦れて、わざと水音を立てて煽りすらした。
 ヒロの欲望はとても大きくなって、咥えるのもつらいくらいに育った。
 欲しい。はやく。
 これで、いっぱいに満たされたい。
 ベッドの引出しを開け、ローションを取り出した僕は、下を脱ぎ捨て、横たわる腰をまたいだ。蓋を開けるのももどかしく、たっぷりと手に取った粘度のある液体を、自身の奥に性急に塗り込めた。
「……あ」
さわってもいないのに完全に勃ち上がり、涎を垂らす僕の欲望。彼女には存在しないそれをヒロの眼前にさらしていることに気づき、あわてて上体を伏せた。後ろ手に指を増やしながら、異物感に耐えていると、
「…っ!」
また、ほくろに吸いつかれて、息を飲んだ。
 ……我慢、できない。
 僕は、入口の馴らしもそこそこに、ヒロを迎え入れることにした。右手であさましい分身を覆い隠し、腰を落とす。
「……う、ぁ……」
身体の中心を、太い剣が貫いていった。開かれて、満たされる───身体だけは。
 ふいに、ヒロの右手が、僕の服の裾をたくし上げて、胸の先に触れてきた。
「あっ…!」
そこから発生したしびれはダイレクトに下腹部に伝わり、先端にさらなる露をにじませた。だが、この愛撫は、僕に対してのものではなく───
 手のひらが、戸惑うように胸を撫でた。あたりまえだ。あるべきふくらみが、ないのだから。
 さまよう右手をそっとはがして、ベッドに押さえつけた。そして、腰を振った。結合部が音を立てるくらいに激しく。
「ん……んっ、あ……、」
まだ馴れきっていないそこは痛みを訴えたが、かまわず続けた。体の痛みで、心の痛みを忘れたかった。
「は、ぁ…っ」
でも、忘れることはできなくて。僕の動きは、しだいに鈍くなっていった。
 痛い。
 痛い、よ。
「……ヒロ」
ぽつりと、名前をつぶやいた時。ヒロが僕の手の下から腕を引き抜いた。そして、動きを止めた僕の腰を痛いほどにつかんで、力強く突き上げてきた。
「あ、ああっ」
穿たれる刺激は快感とも痛みとも判別できないほどに強く、しかし与えられる喜びに、僕の気持ちは一気に高みへと駆けのぼっていった。
「ヒロ、ヒロ……!」
何度も名前を呼んで、
「好き───
奥まで咥え込んだ高ぶりが頂点を極め、打ち震えるのを感じながら、自分も手の中に昇華した。



 急速に引いていく熱。
 同時に押し寄せる、冷ややかな意識。

 ───なんて、ことを。

 ヒロと、その恋人を、踏みにじって。
 憧れを、自らの手で汚してしまった。

「……ごめん……」
声が、震える。
「ごめんなさい」
あふれ出した涙が、ぱたぱたと広い胸に散った。
「忘れて、ヒロ」
眠ってしまった身体の上で、泣きながら、呪文のように繰り返した。
「忘れて───