入れ子の夢 (3)


 ──────夢、か。

 にじんでいた涙をぬぐって、ベッドから起き上がった。
 暗い気分のまま、朝の支度をする。リビングに香水瓶はもう、ない。滅多に開けない場所にしまいこんでしまったから。
 昨日、ヒロが図書館にやって来た。
 『やあ、ヒロくん』
一日間が開いたことで、平静に対応できた、と思う。月曜日が代休で良かった。
 僕に相談を持ち掛けるヒロの様子から、彼があの晩のことを本当に忘れてしまっていると確信できた。まあ、あの泥酔具合を思えば、不思議でもないかもしれない。僕はほっとして、問われたことに何食わぬ顔で答え、彼の気持ちを自分に都合のいい方向へと誘導した。
 ……嘘は言っていない。言わなかったことがあるだけで。ヒロは素直にそれを受け入れ、僕に謝りさえした。
 ぴり、と痛む箇所があった。
 左の鎖骨のあたり。ヒロはこのほくろのことだけは覚えていたらしい。そんなに印象的だっただろうか。
 鏡に映すと、ほくろの周囲に彼のつけた痕がうっすらと残っていた。明日には完全に消えているだろう。
 消えなければいいのに。
 ふとそんな言葉が頭をよぎって、さらに暗い気分になった。


 ヒロが怪我をした。
 僕はいてもたってもいられなくなって、忍んでいた日陰の場所から出て行った。そして気づいた。日向にいるはずの彼女の不在に。
 たまたま来ていなかったのだろうか?
 それとも、まさか、例のことで喧嘩でも?
 治療後、食事に誘ったのは、そのことを確かめたかったせいもあった。そして、身が凍るような一言を聞いてしまった。
 『ほくろ。さっき、見えちゃった』
 ……今度も、嘘は言わなかった。言っていないことがあるだけで。
 ヒロはひどく責任を感じたようで、僕の良心はぎりぎりときしんだ。だけど、全てを明かすわけにはいかない。僕の罪はもっと彼を苦しめるはずだし───ヒロに嫌われてしまったら、僕はもう、立ち直れない。

 ああ。
 忘れられたことが悲しいのは。
 ほくろを覚えていてくれたことが嬉しいのは。
 彼女と別れたことに安堵を覚えるのは。
 彼女との別れに無関係だと言われて、痛みを感じるのは。
 「毎日毎日会いたくて、会えばどきどきするようなレンアイ」を否定されて傷ついたのは。

 僕は、馬鹿だ。
 この後に及んで、ヒロへの想いを恋に変えてしまった。
 ───罪人の分際で。


 勤務中、ヒロと、同じく学生らしい女の子が話しているのを見た。携帯電話を渡している。番号の交換だろうか。
 友達か。それとも、新しい彼女なのか。
 ひどく胸が苦しくなり、そばの同僚に気分が悪いと伝えて、外に出た。そのまま、館の裏手へと回る。人のいない所に行きたかった。

 ヒロは男らしくさっぱりとした、気持ちのいい人間だ。
 放っておいても、ちゃんと、新しい彼女が現れる。
 僕がそういう対象になることなんてありえない。
 彼はストレートで、僕のことを図書館の先輩としか思っていないんだから。

 あのキス。
 恋人に対する愛情と情熱に満ちて、とても優しかった。
 今度はあの子が、それを受けるんだろうか。

 ……なぜ、ヒロがここに現れるんだろう?

 『休憩中すんません。ちょっとお願いが』
 ああ、やっぱり。
 僕は、ほんとうに馬鹿だ。いったい何を期待した?
 僕はあの着信メロディを鳴らす術も持っていないじゃないか。

 胸の苦しみはますますひどくなって。
 ヒロは、黙って去っていった。


 その日、不甲斐なくも早退した僕は、しまいこんでいた香水瓶を捨てた。
 隠して、蓋をするだけでは何も解決しない。
 ……思いきることができないのなら、あきらめて捨てるしかないんだ。


 前期試験の最終日。ヒロが図書館にやって来た。久しぶりに見るその姿に、僕の胸は、震えた。
 あの時に見た女の子が一緒に来ていた。明るくて、人懐こい子だ。前の彼女とはだいぶ違う印象だけれど、気楽に言葉を交わしあえるところは同じらしい。ヒロはきっと、こういうタイプが好みなんだろう。
 どんな女の子でも、僕よりはお似合いだろうけど。
 顔には笑みをたたえながら、心の中で自嘲する。

 あきらめたはずなのに。
 遠ざかる後ろ姿から目が離せない。
 『でも、ときめきって、自分の意志でどうこうできるものじゃないでしょう?』
 以前自分の言った台詞がぐるぐる回る。ほんとうに、その通りだ。
 だけど、この想いには行きつく先なんてないのに。
 僕は。
 僕は、どうすれば───