──────夢、か。
にじんでいた涙をぬぐって、ベッドから起き上がった。
暗い気分のまま、朝の支度をする。リビングに香水瓶はもう、ない。滅多に開けない場所にしまいこんでしまったから。
昨日、ヒロが図書館にやって来た。
『やあ、ヒロくん』
一日間が開いたことで、平静に対応できた、と思う。月曜日が代休で良かった。
僕に相談を持ち掛けるヒロの様子から、彼があの晩のことを本当に忘れてしまっていると確信できた。まあ、あの泥酔具合を思えば、不思議でもないかもしれない。僕はほっとして、問われたことに何食わぬ顔で答え、彼の気持ちを自分に都合のいい方向へと誘導した。
……嘘は言っていない。言わなかったことがあるだけで。ヒロは素直にそれを受け入れ、僕に謝りさえした。
ぴり、と痛む箇所があった。
左の鎖骨のあたり。ヒロはこのほくろのことだけは覚えていたらしい。そんなに印象的だっただろうか。
鏡に映すと、ほくろの周囲に彼のつけた痕がうっすらと残っていた。明日には完全に消えているだろう。
消えなければいいのに。
ふとそんな言葉が頭をよぎって、さらに暗い気分になった。
ヒロが怪我をした。
僕はいてもたってもいられなくなって、忍んでいた日陰の場所から出て行った。そして気づいた。日向にいるはずの彼女の不在に。
たまたま来ていなかったのだろうか?
それとも、まさか、例のことで喧嘩でも?
治療後、食事に誘ったのは、そのことを確かめたかったせいもあった。そして、身が凍るような一言を聞いてしまった。
『ほくろ。さっき、見えちゃった』
……今度も、嘘は言わなかった。言っていないことがあるだけで。
ヒロはひどく責任を感じたようで、僕の良心はぎりぎりときしんだ。だけど、全てを明かすわけにはいかない。僕の罪はもっと彼を苦しめるはずだし───ヒロに嫌われてしまったら、僕はもう、立ち直れない。
ああ。
忘れられたことが悲しいのは。
ほくろを覚えていてくれたことが嬉しいのは。
彼女と別れたことに安堵を覚えるのは。
彼女との別れに無関係だと言われて、痛みを感じるのは。
「毎日毎日会いたくて、会えばどきどきするようなレンアイ」を否定されて傷ついたのは。
僕は、馬鹿だ。
この後に及んで、ヒロへの想いを恋に変えてしまった。
───罪人の分際で。
勤務中、ヒロと、同じく学生らしい女の子が話しているのを見た。携帯電話を渡している。番号の交換だろうか。
友達か。それとも、新しい彼女なのか。
ひどく胸が苦しくなり、そばの同僚に気分が悪いと伝えて、外に出た。そのまま、館の裏手へと回る。人のいない所に行きたかった。
ヒロは男らしくさっぱりとした、気持ちのいい人間だ。
放っておいても、ちゃんと、新しい彼女が現れる。
僕がそういう対象になることなんてありえない。
彼はストレートで、僕のことを図書館の先輩としか思っていないんだから。
あのキス。
恋人に対する愛情と情熱に満ちて、とても優しかった。
今度はあの子が、それを受けるんだろうか。
……なぜ、ヒロがここに現れるんだろう?
『休憩中すんません。ちょっとお願いが』
ああ、やっぱり。
僕は、ほんとうに馬鹿だ。いったい何を期待した?
僕はあの着信メロディを鳴らす術も持っていないじゃないか。
胸の苦しみはますますひどくなって。
ヒロは、黙って去っていった。
その日、不甲斐なくも早退した僕は、しまいこんでいた香水瓶を捨てた。
隠して、蓋をするだけでは何も解決しない。
……思いきることができないのなら、あきらめて捨てるしかないんだ。
前期試験の最終日。ヒロが図書館にやって来た。久しぶりに見るその姿に、僕の胸は、震えた。
あの時に見た女の子が一緒に来ていた。明るくて、人懐こい子だ。前の彼女とはだいぶ違う印象だけれど、気楽に言葉を交わしあえるところは同じらしい。ヒロはきっと、こういうタイプが好みなんだろう。
どんな女の子でも、僕よりはお似合いだろうけど。
顔には笑みをたたえながら、心の中で自嘲する。
あきらめたはずなのに。
遠ざかる後ろ姿から目が離せない。
『でも、ときめきって、自分の意志でどうこうできるものじゃないでしょう?』
以前自分の言った台詞がぐるぐる回る。ほんとうに、その通りだ。
だけど、この想いには行きつく先なんてないのに。
僕は。
僕は、どうすれば───