premier amour


 僕は森 季広(もり すえひろ) 。「パティスリー プティ・エマ」でスーシェフを務めている。
 現シェフパティシエの崎谷亮介さん、通称サキさんとの出会いは、三年前。採用面接の時、当時のシェフ、ムッシュ・ベルナールの横で通訳をしていたのがサキさんだった。その時はパティシエだとは思っていなかったので、後で彼がスーだと聞かされてすごくびっくりしたのを覚えている。何しろサキさんはちっちゃくて童顔で、うっかりすると高校生にも見えるような人だったからだ。僕より一つ年上だったけど。
 一緒に働き始めると、もっと驚かされた。言葉遣いはお世辞にも上品とは言えないが、その手は非常に高い技術でもって、きらめくように美しいお菓子を生み出す。外見だけではなく味もすばらしい。そしてサキさんは、何よりもお菓子を愛する職人だった。お菓子について語る時のサキさんの顔はなんとも幸せそうで、聞いているこちらまでなんだか嬉しくなった。そして気がつけば、すっかりサキさんのファンになっていた。
 常連客にも、サキさんのファンは多い。特におばさま方には、なぜか絶大な人気がある。
「サキちゃん、今日のおすすめは何かしら?」
「そりゃもう今できたばっかのこのオペラだよ、見てこのチョコの艶! もー絶対うまいからさ、10個ぐらい持ってっちゃってよ」
八百屋のようなトークだが、この飾り気のなさが受けるようだ。本当に10個買っていった人もいるらしい。
「おーい、モリス」
スタッフルームの方からサキさんの声がした。
「はーい」
モリスというのは僕のことだ。あれは、僕のプティ・エマ初勤務の日のこと。ムッシュ・ベルナールに下の名前を尋ねられ、「スエヒロです」と答えたのだが。
「…ス…スエ…スエィロ…?」
フランス語にはhの発音がないため、ムッシュは僕の名前をうまく言えなかった。するとサキさんが横から、
「んじゃ、モリスでいいだろ」
なんて、つるっと言ってしまったのだ。
「ええっ?」
「モリスエヒロだろ? で、モリス。これならダヴィッドも言えるし」
「そんな…」
かくして僕は、どう見ても日本人以外の何者にも見えないのに、こんなフランス人みたいな名前で呼ばれることになってしまったのだ。ちなみにサキさんの「サキ」は、小学生の頃同じクラスにもう一人「りょうすけ」がいて、協議の結果ついた呼び名だそうだ。本人も気に入っているらしい。自分の名前だけはかっこいいのだからずるい。
 スタッフルームの方へ向かっていたら、サキさんがぴょこんと顔を出した。
「試食会、何人来るって?」
「3人です。柴山君と、早川さんと、江口さん。あとシフトに入ってる子たちも暇見て顔出すと思います」
「了解」
今日は厨房の作業が終わった後、試作品の試食会を行う。会といっても皆で厨房に集まってあれこれ言いながら食べるだけだが、厨房スタッフだけでなく、フロアからも参加してもらっている。カフェができて以降初めての試食会なので、新しく入ったメンバーはとても楽しみにしているようだ。
 参加者の一人である柴山君は以前、サキさんが勤めていた店の客だったが、サキさんに触発されて脱サラし、この業界に入ったそうだ。確かに、サキさんを見ているとそんな気持ちになるのもわかる気がする。だけど、この店に採用されたのをサキさんには黙っていたというのだから面白い。驚かそうと思ったと本人は言っているが、コネで採用されたと思われるのが嫌だったのではないかと僕は想像している。彼は昔バスケをやっていたそうで、長身でかっこいい。女の子たちに随分もてるらしいけど、もう心に決めた人がいるとのことで、すべて断っているそうだ。なんともうらやましい話だ。
 さて、業務終了。試食会用のケーキを並べていると、
「失礼しまーす。うわあ、おいしそう!」
厨房に真っ先に入ってきた早川さんが目をキラキラさせた。
「お茶が来ましたー」
柴山君と江口さんが紙コップに入れた紅茶を運んできてくれて、さっそく試食が始まった。
 いくつか並んでいるケーキの中に、気になるものがあった。三角形にカットされた生クリームの苺ショートだ。ケーキの王道だけど、プティ・エマのケーキはほとんどが円筒形のワンポーションか、スクエアにカットしたタイプになっていて、こういうケーキは今のところ置いていないのだ。
「これ、サキさんのですよね」
「ああ。うちにはこのタイプないから、逆に新鮮かなと思って」
その通り、なんだかとても食べてみたくなるケーキだ。三角形の苺ショートというのは、日本人のDNAに働きかける何かがあるのではないか…というのは言いすぎだな。でも、皆の手がいちばん伸びているのは確かだった。
「イチゴおいしい〜」
「このクリーム、苺とよく合いますね」
「色の組み合わせがきれい」
味見しつつ、口々に感想を言い合う。三段重ねになっているジェノワーズ(スポンジ)の、真ん中の段がきれいな緑色をしていて、卵色の上下との対比がとてもいい。きっとこれはピスタチオの生地だ。どうやったらこんないい色に焼けるのかな。今度教えてもらおう。ジェノワーズの間に塗っているのはクレーム・パティシエール(カスタードクリーム)とシャンティを合わせたクリームで、一緒に挟んだ苺の酸味をまろやかにしている。でも、ほどよい甘酸っぱさは損なわれていない。中の苺は、わざと酸味の強いものを使っているとみた。うーん、やっぱりすごい。
「じゃ、これは決まりでいいかな」
サキさんは皆の反応に満足そうだった。
「なんて名前にすっかな」
「『ショートケーキ』じゃダメなんですか?」
「んー、ちょっと寂しいかも。他の名前から浮いちゃうよ」
「『フレジエ』はもうあるしね」
「うーん。『ガトー・フレーズ』? これもあったな…」
皆であれこれと考える。フランス菓子の命名は意外と直截なものが多い。横文字の羅列で優雅に感じられるが、その実「フレジエ」は「フレーズ」=苺から派生した名前だし、「ガトー・フレーズ」はまんま「苺ケーキ」という意味だ。そんなのじゃつまらない。もっとすてきな、このケーキにぴったりの名前は……
「『プルミエ・ラムール』なんて、どうですか?」
と言ったら、サキさんが固まってしまった。あれ、そんな恥ずかしかったかな。
「可愛いですね」
「なんて意味ですか?」
江口さんの質問に、少し自信なく答えた。
「『初恋』」
一瞬の間をおいて、場がわっと沸いた。
「森さんロマンティスト〜!」
「それいいです、それにしましょう!」
「あ、なんかシェフ、照れてる」
 にぎやかな雰囲気の中、ふと見ると、サキさんの隣に立っている柴山君もなぜか照れているようだった。彼にも何か、甘酸っぱい思い出でもあるのかな?


−終−