甘い運命 (6)


 柴山が店に来てから一時間ばかり経過した頃、やっと会議の終わる気配が見えた。ガラスの向こうで皆が次々に立ち上がる。と、奥の扉があわただしく開き、
「拓人ごめん! 遅くなった!」
サキが開口一番そう言った。
「お疲れさん」
「裏で待っててくれよ、すぐ行くから。あー、房子さんもすみませんでした、寒いのに残らせちゃって」
「いいのよ、拓くんといろいろ話ができて楽しかったわ。早く着替えてらっしゃいな」
 裏口で待っていると、ほどなくしてサキが靴をつっかけながら出てきた。
「わりーホント、あんな盛り上がるなんて思ってなくて」
「いいって。それより早く行こうぜ、腹減っちまった」
二人が足早に駅に向かっていると、
「サキー」
一台の自転車が追い抜きざまに、サキの名前を呼びながら手を振った。
「おう、またなー」
サキが手を振り返す。
「あ」
よく見れば、厨房での論争の相手だった。
「なんだ?」
「いや、全然フツーだなと思って」
「? 何が?」
「ほら、さっきすげーやりあってたじゃん。ああいうのの後って気まずかったりしないか?」
「ああ。でもけっこよくあるから、いちいち気にしてたら身がもたねーな。…あ、やべーもう電車来るじゃん」
踏み切りの音を聞いた二人は急いで切符を買い、やって来た電車に駆け込んだ。
 座席に座った柴山が何気なく車内ポスターを眺めていると、高級フランス料理店の広告が目に入った。
「そういや、何の店なんだ?」
サキからは行きたい店があるとしか聞いていなかったのだが、まさかあんな店でフルコースなんて言わないよな…などと考えていたら、何やら意外な答えが返ってきた。
「クレープ」
 は?
「クレープ?」
「クレープ」
 なに連呼してんだよ俺ら。ええでも、晩メシにクレープ? いくら菓子こそ命ったってそりゃないんじゃ……
柴山の怪訝な顔を見て、サキはにやりと笑った。
「まあ、見てのお楽しみってとこだな」

 着いた駅前はわりと大きな繁華街で、人波でごった返していた。
「けっこう人気の店なんだぜ」
サキの台詞に腕時計を覗くと、もう8時を回っていた。おまけに今日は週末だ。
「今から行って入れるのか?」
「知りあいの店なんだ。来る前に電話もしといたから」
話しながらサキは、雑踏を避けるように裏道に入った。それについて行くと、意外なほど落ちついた空間が現れた。喧騒を遠くに聞く雰囲気が、かえって静けさを際立たせている。
「あそこ」
そう言って指さされた先には、石造りの建物があった。張り出したワインカラーのひさしに金色の文字で「Gwen Ran」とある。どうやらこれが店名らしい。入り口の脇にはメニューが書かれた黒板が置いてあり、フランスの街角のカフェといった雰囲気だ。
 中に入ると、暖房の熱気が冷えた身体を包んだ。ずいぶんな盛況で、順番待ちの客もいる。柴山は少々心配になったが、サキが名前を告げるとすぐに通された。
「とりあえずシードル二つ」
「はい、かしこまりました」
サキは案内してくれた店員にそう言って、席に着いた。
「シードルって?」
「リンゴの発泡酒。クレープ屋の定番なんだ」
「俺甘い酒苦手なんだけど」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
サキがひらひらと手を動かしていると、その横に、
「Bon anniversaire!」
黒い顎ヒゲを生やしたシェフらしき太目のおじさんがひょっこりやって来た。
「お誕生日おめでとう、サキ」
「邦さん!」
サキがうれしそうな顔をする。
「覚えててくれたんだー」
「当然だね、クレープの日なんだから」
 クレープの日? なんじゃそりゃ。
「えっと邦さん、紹介するよ。こいつ、柴山拓人。近所の友達で、オレの新作の味見係」
 どういう紹介だ。
「どうも、こんばんは」
「こんばんは。サキの味見係なんて、うらやましいポジションだね」
邦さんとやらは人のよさそうな笑みを浮かべた。
「拓人、この人がここのオーナーシェフの白井邦雄さん。パリにいた頃、邦さんオレの隣の部屋に住んでてさ。いろいろ助けてもらったから、今でもアタマ上がんねーの」
「ははは」
なるほど、ずいぶん歳の離れた知りあいだなと思っていたが、合点がいった。
「邦さん、今日は拓人のおごりなんだ。だからじゃんじゃん高いの持ってきてよ」
「待てコラ」
「あっはははは」
そうこうしているうちに、先ほど頼んだシードルが運ばれて来た。
「じゃ、あんまりお構いできないけど、その分腕を奮いますんで。どうぞゆっくりしてってください」
そう言って邦さんは厨房に戻っていった。