甘い運命 (9)


「柴お前、なんか悩みでもあるのか?」
「え?」
長い信号待ちにハンドルの上で手を組んでいた柴山は、驚いて助手席の方に顔を向けた。今日は車で外出で、隣に座るこの佃(つくだ)と同行なのだ。
「このところお前、微妙に暗いんだよな。なんだ、また女か?」
「違いますよ」
ニヤリと笑う佃に、柴山はちょっと憮然とした表情を見せた。
 佃は柴山の会社の先輩であると同時に、高校時代のバスケ部の先輩でもある。よく気の回る面倒見のいい人物で、柴山にとっては兄のような存在だ。大学で就職活動をしていた時に彼に誘われてこの会社を受け、そのまま現在に至る。そんなわけでただでさえ頭が上がらないのだが、長いつき合いなだけに、知られて嬉しくないこともいろいろ知られてしまっており、ますます頭が上がらないのだった。
「悩みってほどのことでもないんですけど」
やっと信号が変わり、柴山はアクセルを踏みながら尋ねた。
「佃さんって、子供の頃何になりたかったですか?」
「なんだ急に」
唐突な問いに佃は少々戸惑った様子だったが、「そうだなあ」と、過去を思い出すように目線を上げた。
「俺はなりたいものがその日その日でコロコロ変わる子供だったよ。スポーツ選手とかタレントとか宇宙飛行士とかマンガ家とか、とりあえず思いつくようなものは全部なりたいと思ったな」
「佃さんらしいや」
指折り数える姿に、柴山も頬をゆるめた。
「で、どうしたんだ急に」
柴山はサキのことを話した。子供の頃なりたいと思った職業に脇目もふらず邁進し、それを現実のものとしている友人がいると。
「そりゃすごいな」
「そいつがこないだ言ったんです」


『オレ、自分の店を持ちたいんだ』
「Gwen Ran」からの帰り道。サキは白い息を吐きながら、ちょっと照れくさそうにつぶやいた。
『そんな広くなくてもいいから、明るくて清潔で、ちょっと覗いてみたくなるような、いい感じの店。そこで毎日サイコーにうまい菓子作って売るんだ』
そして、澄んだ星空を見上げて、言った。
『腕も金もまだまだ足んねーけど、いつかな』


「その時そいつ、すっげえいい顔してて。ああ、夢見る顔ってのはこんなかなあって思って。でも、それ見てたらなんか……、いろいろ、思い出しちゃって」
柴山はハンドルを握ったまま、苦く笑った。
「自分も昔はこんな顔してたのかな、って。別に、後悔してるわけじゃないんですけど」
「お前は、図体でかいくせに意外と繊細なんだよなあ」
佃は茶化すように言って、胸ポケットから煙草を取り出した。
「ま、あんまり気にするなよ。その友達ってのは何十万人に一人の強運の持ち主みたいだからな、そんなのと比べてもむなしくなるだけだ」
そして、煙を吐きながら、独り言のように続けた。
「みんなが子供の頃なりたかったものになれるんなら、サラリーマンなんていないさ」



 帰り道、柴山はいつものように電車に乗っていた。一ヶ所いつもと違うのは、右手に下げた紙袋の中にバスケットボールが入っていることだ。ちなみに、会社の倉庫から失敬した。
 駅から、アパートとは反対方向に進む。ちょっと歩くと公園があって、ここに3on3用の片面のバスケコートがあるのだ。普段は学校帰りの中高生などがたむろしているようだが、寒いのと、すっかり暗くなっている時間帯とのせいだろう、辺りは無人だった。街灯の寂しげな明かりの中、擦り切れたゴールネットがひっそりと影を落としている。
 柴山は着込んでいた上を脱いでワイシャツ姿になると、おもむろにボールを取り出した。久しぶりの重みと手ざわり。何度か地面にバウンドさせた後、スリーポイントラインに立つ。

 しんと静まりかえったコートは神聖さすら感じさせる。
 イメージする。
 この手から放たれたボールが放物線を描き、ネットへと吸い込まれる瞬間をイメージする。
 他のことは何も考えない。
 何も。


 ボールはバックボードに当たり、枠の上をなぞった後、スローモーションで外にこぼれ落ちた。
 静寂の中、転々と地面を跳ねるボールの音だけが響いた。