甘い運命 (14)


「拓人」
自分の胸のあたりから聞こえた静かな声に、柴山ははっと我に返った。
 おそるおそる、顔を上げた。大きな瞳と目が合う。
 サキは、極上の笑顔を見せた。
 そして。

「てめ、弱気になってんじゃねーよ!」
「ふぁあ?」

 柴山の両のほっぺたを指でひっぱり、びろ〜〜んと引き伸ばしたのだった。


 この上なく間抜けな顔にされ、頭の中が一瞬のうちに疑問符だらけになった。
 ………なんで、こうなるんだ?

「…オレもさ」
頬から指を外したサキは、語り始めた。
「フランス行った最初の冬な。オレも、風邪ひいてすっげー熱出して、この世の終わりみたいな気分になったんだ」
その頃のことを思い出したのか、切なげな表情になる。しかしすぐ元の顔に戻り、
「でも、元気になったらケロッと忘れちまった」
明るく言い放った。そして、
「今はちょっと心細いかもしんねーけど、だいじょーぶ、二、三日すりゃすぐよくなるって。な?」
そう言って、柴山の頭を子供みたいに撫でたのだった。

 ……………………。

 見事なまでに的外れな見解に、柴山は、みるみる奈落へと落ちていく自分を感じた。
 サキは自分を恋愛対象として見てはいないのだ。
 サキがもし女だったら、このシチュエーションで柴山の感情を勘違いすることは、よほどの天然ボケでもない限りまずないだろう。しかしサキは男で、今のこの状況を「風邪で弱った友人が心細さに甘えてきた」という意識でしか捉えていないのである。
 その見解に異を唱えることはできない。自分とて昨日の夜までは、そう考えることの方がよほど当たり前だったのだから。
 自身の抱く想いの異端さをつきつけられた上、その想いは永遠に理解されることはない、と断言されたかのようで。
「ほら、早く戻れよ。いつまでもこんなとこつっ立ってるとまた悪化するぞ」
絶望的な気分で、ひとまわり小さな背中に回した腕を離した。
「でもあれだな、拓人もけっこ可愛いとこあるじゃん」
「……うるせー」
楽しそうなサキとは対照的に、柴山の胸には重く苦いものが満ちていった。


 熱は38度をわずかに切っていた。
「下がりだしたな」
体温計を振りながら、サキが聞いた。
「もう上がんねーとは思うけど、どうする? オレ泊まってもいいぞ」
「…いや」
柴山はかすかに首を振った。
「大丈夫だよ」
「そうか?」
サキは体温計をケースに戻すと、ベッドの脇に置いた。
「じゃ、また明日様子みに顔出すわ」
「いい」
間髪入れずに返す。
「え?」
「……来なくて、いいから」
きょとんとしていたサキだったが、しばらくして合点がいった顔になった。
「わーかった、女来んだろ」
「違う!」
思いがけず強い口調になってしまった。サキが驚いている。柴山は気まずさに顔を背けた。
「とにかく、大丈夫だから…、ほっといてくれ」
「ほっとけってお前、なんだそれ」
「いや…」
言葉を継ぐことができず、押し黙る。
「……拓人」
サキは改まった口調で柴山の名前を呼び、ベッドの横に座った。
「変だぞお前。なんかあったのか?」
背けた顔に向かって問う。
「どうしたんだよ。言ってみ? 友達じゃん」

 友達。
 そう、俺たちは「友達」だ。
 だから───、言えない。
柴山は、シーツの端を手のひらが白くなるほど握りしめた。

 ため息が聞こえた。
「わかった」
あきらめたサキが立ち上がる。
「でもな、なんか悩むんなら元気になってからにしろよ。それじゃ治るもんも治らねーぞ」
また、子供のようにくしゃくしゃと頭を撫でられた。


「じゃ、もし死にかけたら電話しろよ」
サキはそう言うと、スペアキーをテーブルに置き、ドアの外に消えた。
 柴山は掛け布団の中に頭までもぐりこんだ。
 そうだ。俺はいま柄にもなく体調を崩して弱気になってるだけなんだ。
 こんな気持ち、風邪が治ったらケロッと忘れちまうんだ。
 ───今、なんか冷たいものが頬を流れていったみたいだけど、気のせいなんだ。