甘い運命 (15)


 ひと月近くが過ぎた。最後に鼻に来て周囲を鬱陶しがらせた風邪ももう完全に快復し、世間は来るべき春を目前にどこか浮き足立っている。しかし、柴山は一人季節はずれの木枯らしを背負っていた。
 あれから柴山はサキに会っていない。いや、会わないようにしている、というのが正しい。ラ・フルールの前を通らないだけならまだしも、通勤途中で出くわさないよう、駅と家の間をわざわざ遠回りしているのだから重症だ。
 思えばこの状況は、何やら初恋の時と似ていた。相手は近所のお姉さんで、笑うとえくぼができるチャーミングな人だった。中学生になって間もないある日、ふとそれを自覚した途端、自分から話しかけることができなくなってしまった。顔を見るだけでどきどきして、どうしていいのかわからなくなるのだ。そんな不様な自分の姿を見られるのが嫌でなるべく顔を合わせないようにしていたら、しばらくして、どこかにお嫁に行ってしまったと聞き、枕を濡らしたのだった。
 その後は、自分から誰かを好きになるということはなかった。バスケ部のレギュラーでなかなか男前とくれば、よほど性格に破綻がない限り交際を申し込んでくる女子には不自由しないシチュエーションである。実際その通りだったし、バスケをやめてからも、友達からの紹介や合コンの誘いなどは途切れることがなかった。気が合えば付き合い、そうでなければないでまた次の機会が巡ってくる。そういう状況がいつしか当たり前のようになっていた。そう、自分が派手好きな女を好んでいたわけではない。派手好きな女の方が積極的に声をかけてくることが多かっただけだったのだ。
 だがそれは、受身ばかりのいいかげんな恋愛しかしてこなかったということでもあった。これではふられ続けても文句は言えまい。
 結局俺は、あの初恋の頃からなんにも成長してなかったんだな。
がっくりとため息をつく。しかし今回の場合、成長していたからといって告白できるというものでもないのだが。
「おいおい柴、何シケたツラしてんだ〜?」
心配した佃が時々つついてくるが、曖昧に言葉を濁すばかりだった。当然だ。「男友達に本気で惚れてしまいましたがどうすればいいんでしょう」なんて、いくら気心の知れた先輩でもそう簡単に相談できる話ではない。
 こうして柴山が停滞している間にも、世の中は着実に春へと移り変わっていたのだった。

 いくらシケたツラをしていても、一人暮しである限り生活必需品は購入しなければならない。日曜日、柴山は近所の大型量販店に買い物に出かけた。サキがあまりこの店に来ないことは考慮の上である。柴山のアパートとサキのそれとは駅を挟んで逆方向にあり、サキの家からは別の店の方が近いのだ。
 しかし、外出するたびにいちいちこんなことを考えてしまう自分がいいかげん情けなくなってきていた。このままでは何一つ解決しない。
 告白するかしないか。結局、二つに一つじゃないか。何をそんなに悩むことが───
「おい、拓人!」
B1食料品売り場のパンコーナー前で彫像のように固まっていた柴山の呪縛を解いたのは、今いちばん聞きたくなかった声だった。おそるおそる振り返ると、やはり元凶の姿があった。
「サキ…」
「何ボーッとつっ立ってんだよ」
サキは本日の特売品・箱ティッシュ5個組を両手に抱えている。色気もへったくれもない状況だが、それでも跳ね上がっている鼓動に、柴山は自身の病の深さを感じた。
「今ヒマあるか? ちょっと手伝ってくんねーか」
何をと尋ねかけた時、衝撃は、ジャムやはちみつの瓶が並ぶ陳列棚の影から現れた。
「サキちゃん?」
カートを押しながらやって来たのは、ポニーテールのよく似合う可愛い女の子だった。