甘い運命 (16)


「由香お前、『サキちゃん』はやめろって言ってんだろ」
「あ、ごめんなさい。気を抜くとつい」
「気をつけろよ。で、もう一人荷物持ち確保したぞ」
否定がなければ肯定とばかりにティッシュ5個組を押しつけられながら柴山は、突然の登場人物にとまどいと衝撃をおぼえていた。由香と呼ばれた相手の方も、とまどっている様子だ。
「えっとな拓人、こいつ松野由香っていって、オレの同級生の妹なんだ」
サキの言葉に、状況を把握したらしい松野の方から挨拶があった。
「はじめまして、松野です。あの、柴山さんですか?」
「え?」
初対面の人間から自分の名前が出てきたことに驚く。
「サキ先輩から聞いてます、食べっぷりのいい大男だって」
紹介文のセンスは相変わらずらしい。嘆息しかけた柴山に、松野は笑顔を向けた。
「そんなこと言うから横に大きいのかと思ってたのに、なんだ、背が高いんですね。かっこいー」
「…どうも」
「ほら由香、行くぞ。このままじゃいつまでたっても終わんねー」
「はーい」
はしゃいだ声を断ち切ったサキの態度は、大量の買い物につきあわされている不満からか、はたまた別の理由からか、いくぶん不機嫌そうに感じられた。

 荷物持ちの道中、松野が先日ラ・フルールの従業員募集で採用されてこの近所に引越してきたこと、サキが生活用品の買出しに駆り出されたことなどを聞いた。
「だいたいお前、安いからっていい気になって買いすぎなんだよ」
「えーだっているものばっかりだよ」
「限度ってもんがあんだろ」
「買っとかなくて後で困るのは私だもん」
松野はサキのぽんぽん飛び出す言葉にも臆することなく会話し、傍目には仲のいいカップルのようにも見えた。よくないのは柴山である。これではまるで二人のおまけではないか。
「まだ買うのかおい…」
もはや満載のカートにまだまだ大特価ツナ缶を放り込む松野に、サキがうんざりした声を上げた。
「お願いします、あとちょっとだけ!」
「見ろ、拓人があきれて無口になっちまってんじゃねーか」
「わーんすいません」
「いや…はは」
無口な理由はそれだけではないのだが。

 荷物を置いた後、柴山は松野の誘いでコーヒーを飲みに行くことになった。あまり乗り気ではなかったが、二人の関係を詳しく知りたいという気持ちが居心地の悪さに勝った恰好だ。
 松野の仕事内容は柴山を少なからず驚かせた。
「製造って、パティシエってこと?」
「そうです。って言っても、まだ見習いなんですけど」
なんでも松野は今月、サキと同じ製菓学校を卒業したばかりで、ラ・フルールが初めての就職だという。
「女の子って珍しくない?」
「そんなことないです。学校も今は女生徒の方が多いくらいですよ」
「今までいなかったウチの店のが珍しいかもな」
「そうなんだ…」
サキの言葉に、改めてラ・フルールの職人は男性ばかりだったことに気づいた。だから無意識にそういうものだと思っていたのかもしれない。
「でも、周りが男ばっかりってやりにくいんじゃない?」
「実は、サキちゃ…や、先輩に無理を言って、夏休みにちょっと体験入店させてもらったんです。その時、いいお店だなって思って」
松野はカプチーノを一口飲み、続けた。
「商品やディスプレイなんかがすごく好みだったんですよ。それに、女だからっていい意味でも悪い意味でも特別扱いされなかったし。サキ先輩にはいろいろ怒られましたよ」
「そんな怒ってねーぞ…って、思い出した、お前いきなりオレの作ったアントルメ注)ぶっ壊してくれたよな」
「うわー思い出さないで!」
サキの台詞に、松野は手を合わせて謝るポーズをした。
「あれはごめんなさい! ホントすいませんでした!」
「二度目は許さねーからな」
サキの口調はからかいを含んだもので、けっして怒っているわけではなかった。和やかな空気が流れるその横で柴山は「アントルメ」の意味がわからず、一人取り残されていた。
 この子は、わかるんだな。
柴山の心に苦い風が吹いた。


注)アントルメ…広くはケーキやデザート類全体を指す言葉。ここでは、切り分けていないホールのままのケーキ(デコレーションケーキ)のこと