甘い運命 (22)


 柴山の面食らった様子に、花田氏は言葉を継いだ。
「崎谷からは何も聞いていないですか?」
「はい」
「そうですか…、ふむ」
花田氏は房子さんとちょっと顔を見合わせ、しばしあごを撫でていたが、再度手を組み直すと、次のような事情を説明してくれた。
 先日、サキのフランス修行時代の師匠であるダヴィッド・ベルナール氏からサキに連絡が来た。このたび日本の某フードサービス会社が、ある地方都市に本格フランス菓子のパティスリーをオープンすることになり、ベルナール氏がそのシェフパティシエ(製菓長)として招聘された。ついてはサキに、スーシェフ(2番シェフ、シェフの補佐役)として一緒に働いてほしいというのである。
「それで、相談を受けましてね」
ベルナール氏によると、店ができるのはまだ先の話だが、商品や設備等の打ち合わせのため来月中旬には日本にやって来る。そこで、できればその頃からのサポートを希望したいという。氏は日本語がまったくできないので、通訳が必要なのだ。
「崎谷は今現在、うちの主要な戦力の一人ですし、自分の紹介した後輩が入ったばかりという点で責任も感じているようでした。私としても彼が抜けるのは非常に痛手なので、その場でOKとは言えなかったんです」
だが、こんな機会は滅多にあることではない。花田氏は、急な話ではあるが、サキの今後のことを考えるなら、これを受けるべきだという結論に至った。そして翌日、彼にそのように伝えた。ところが。
「なぜか彼の方が、正式な回答は少し待ってくれと言い出しましてね」
あちらの都合が変わったのかと思ったらそうではないと言う。何かあったのかと聞いても言葉を濁すばかりで、決まったら話すの一点張り。
「最初に相談されたときは行きたがっているようだったので、おかしいなと思ったんですが」
花田氏が一息つくと、
「その日はね、朝からサキちゃん様子が変だったの」
房子さんが話を引き継いだ。それによると、サキは常に何か考え事をしている様子で、いつもならするはずのないミスも多く、心ここにあらずといった感じだという。
「時間が経てば治るかと思ったんだけど、もう今日で三日目なの。他の子たちにも聞いてみたんだけど、とくに心当たりはないみたいで」
頬に手を当てた房子さんは、子を思う母のような表情をしていた。
「それでね、拓くんなら何か知ってるかもしれないと思ったんだけど」
「……」
柴山は頭の中が渦を巻くような感覚と格闘していた。
 今日で三日目ということは、あの日の翌日からだ。タイミングも合致する。
 まさか、あのサキが「悩んで」いるのか?
 開き直ったとはいえ、今後の展開を考えていなかったわけではない。サキからの反応はあるのか、ないのか。ずっと気にしていた。そして「悩まない」「悩めない」と言っていたサキが三日も無反応であることを拒絶と捉えかけていたのだ。
 だが、それがもし反応を考えあぐねているせいだというのなら。それほどまでに「悩んで」くれているというのなら。ひょっとすると───まだ、望みはあるのかもしれない。
 しかし、長々とマイナスロードを歩いてきた柴山の思考は、このプラス方向の仮説を容易には肯定しなかった。悩んだあげくにやっぱり駄目、という結論だってありえるし、柴山とはまったく関係ない、別の悩みだという可能性も……
「心当たりがある?」
房子さんの声で、はっと我に返った。
「いや…」
すっかり「考える人」になってしまっていた柴山に、花田氏は
「よかったら、彼の相談に乗ってやってはもらえないでしょうか。私には言えないことでも君になら言えるかもしれない」
と言った。
「…わかりました」
「よろしく、お願いします」
 花田氏は一息つくと、幾分ぬるくなったコーヒーをすすり、
「崎谷の夢を聞いたことがありますか?」
と、問いかけてきた。
「はい」
自分の店を持ちたい、そこでうまい菓子を作りたい、というあれだ。
「いい顔で話したでしょう?」
花田氏の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「実のところ、崎谷の腕前は職人としてはもう十分なレベルなんです」
それはそうかもしれない。本人はまだまだだと言っていたが、製菓学校時代から数えればもう十年、菓子作りに関わっているのだ。
「彼は本当に菓子を作るのが大好きで、美味い菓子を作れればそれだけで幸せというところがあるんですが…、店を持つというのは、それだけでは無理なんです」
花田氏は苦笑いを浮かべ、
「ご存知とは思いますが、彼は計算のできない性格でね。そこが彼の魅力でもあるんですが、困ったもので、それは店の経営能力という部分にも当てはまるんですよ」
と、続けた。
「美味い菓子を作るには、コストがかかります。材料にこだわれば原価が上がるし、手間をかければ時間や人件費がかさむ。しかしそればかりでは、商品として成り立たない。高すぎる物は売れないからです。だが、時々彼は、美味さを求めるあまりそちらの方に傾くことがある」
「ははあ」
なんだか、わかる気がする。
「下世話な言い方ですが、食っていくためには利益を上げなければなりません。そういったバランスを考える能力が、彼にはまだまだ不足しています。それに、店舗を持つとなれば物件を探さねばならないし、立地や設備の検討も必要です。従業員の給料も考えなければ。今回の話は、それらを学べるまたとないチャンスなんです」
そこまで話すと花田氏は、背もたれに背を預け、腹の上で手を組み、目を閉じた。
「彼がいなくなるのは寂しいですけどね」
そして再び目を開き、優しいまなざしで言った。
「でも私は、彼が夢をかなえるのを手伝いたいし、それを見てみたいんですよ」