甘い運命 (24)


「…さん。柴山さん」
はっとした。声のした方を振り返ると、
「松野…さん?」
松野由香が立っていた。気づかずにすれ違っていたようだ。
「どうしたんですか? ぼーっとして」
「や、ちょっと、考え事を…」
今日の松野は髪を下ろしていた。それだけでずいぶん雰囲気が違って見えるものだと思う。
「いま帰り?」
「はい」
「遅いんだね」
「ええ、見習いですから、片付けとか色々」
松野はかるく微笑んでそう言うと、
「サキちゃんに会ってきたんですか?」
と尋ねてきた。驚いて問い返す。
「どうしてそれを?」
「房子さんに、柴山さんに相談してみたらって言ったの私なんです」
「…え?」
「えっと…これは、房子さんには言ってないんですけど」
松野はちょっと言いにくそうにしていたが、思いきったように口を開いた。
「柴山さん、サキちゃんに彼女がいるかどうか聞かれたでしょう?」
「…うん」
柴山の動悸が次第に高まっていく。
「その答えを私に話してくれてたとき、サキちゃんの様子がおかしかったから、ひょっとして…」
さらに動悸が高まる。
「ひょっとして」、何だ?

「ひょっとして、あの、二人が誰か同じ人を好きになっちゃってたのかと思って」

 ………。
激しく脱力してしまった。漫画なら派手にズッコケるところである。
「…違いました?」
「違うよ」
手を振る柴山を見て、松野は
「なんだ……私てっきり。うわ、ごめんなさい、変な誤解して」
と、とても恐縮した。
「ははは」
柴山は顔で笑いつつ、心で冷や汗をぬぐった。
 松野は気を取りなおすと、別の質問をした。
「サキちゃん、どうでしたか」
「もう大丈夫だと思う。行くって、言ってたよ」
「え?」
目をぱちくりさせる。
「どこに行くんですか?」
「あ…」
失言だった。どうやら、他の従業員にはそこまで言っていなかったらしい。
 結局、隠しきれずに事情を話してしまった。もちろん、サキの転職話だけであるが。
「そうだったんだ…」
松野はずいぶん驚いたようだった。
「まだ、内緒にしといてくれる?」
「わかりました。そうか、それで悩んでたんですね」
それについては、否定も肯定もせず、曖昧にうなずいておくことにした。

「柴山さん」
「はい?」
「もう、好きな人がいるんですよね」
「う……うん、まあ」
ついさっき、ふられたけれども。
「そっか。うん。残念だけど、うまくいくよう祈ってます」
松野は少し目を伏せたが、すぐに視線を戻し、
「でも、もしうまくいかなかったら、ちょっと私のこと思い出してみてくださいね」
そう言うと、屈託のない笑みを浮かべた。柴山も、つられて笑った。
「ありがとう」
 確かに、いい娘だな。
今は素直にそう思えた。


 さっぱりした心持ちで、アパートに帰りついた。
 すべてが終わった。もう、悩まなくていいのだ。そう思うと、ふられたショックよりも安堵感の方が勝った。
 そういえば、夕食がまだだ。何かないかとキッチンを眺め、
「あ」
雑然とした中に、存在を忘れられていた紙袋を発見した。
 袋を開くと、さわやかな、花のような芳香の混じったバターの香りが鼻をくすぐった。貝殻の形をした焼き菓子、マドレーヌだ。
 一口、かじってみる。歯応えはふんわりやわらかい。そして、しっとりと口に広がる、どこか懐かしい、蜂蜜の甘味。
「……うまい」
 涙は出なかった。