甘い運命 (25)


「うーん」
狭いスタッフルームの小さな椅子で、コックコートを着た一人の男が発注書を片手にうなっている。そこに、隣の厨房から入ってきたもう一人が声をかけた。
「どうしたんですかサキさん」
「んー、卵どれくらいいっとくかなと思って」
顔をしかめ、鼻と口で鉛筆を挟むという子供のような仕草で悩んでいるこの男こそ、我らがパティシエ、崎谷亮介であった。その童顔にも身長にもあまり変わりはない。ただ、帽子は少々高くなっている。
 サキがラ・フルールを後にしてから丸三年。新たな職場である洋菓子店「パティスリー プティ・エマ」は上々の評判を得、経営もすっかり軌道に乗っていた。そしてベルナール氏が先月、契約満了で帰国し、サキが後を継ぐ形でシェフパティシエとなったのだ。
「こないだ足りなくなっちゃいましたもんね」
眼鏡を拭きながら返事をするのは、現在スーシェフを務めている森である。
「そうなんだよな。すげーな、新聞って」
先日、地方紙の特集記事でこの店が紹介された。するとその日、急激に客足が増加。品切れが続出して嬉しい悲鳴を上げたのである。雑誌と違って定期購読者の多い新聞の反響は、予想をはるかに上回ってしまったのだ。
「カフェもできますしね」
プティ・エマにはもともと、セルフサービス式のちょっとしたイートインコーナーがあった。それが、要望多数により面積を拡大し、カフェとして明日から正式稼動するのである。その影響も考慮しなければならない。頭を抱えているシェフに、眼鏡を掛け直した森は、
「そろそろですよ。先に行っときますね」
と声をかけて出ていった。開店前のミーティングがあるのだ。
 今日のミーティングでは、カフェ開設にあたって増員したスタッフたちのお披露目がある。フロアのスタッフは今日が初入店だが、厨房の2名は先週から既に入店し、製造に携わっていた。この教育も、サキの頭痛のタネである。まあ一言で言えば、世の中、腕のいい職人ばかりではないということだ。彼らを指導し、時には叱咤して、一定のクオリティを保った商品を提供するのもシェフの責任なのである。
 はー。
 知らず、ため息をついていた。
 プティ・エマがここに至るまでは、決して平坦な道程ではなかった。いかにもフランス的に、折れることを知らないベルナール氏はまず、本社の出店担当者と激しくやり合った。開店後もその勢いは変わらず、氏と店長の間で板ばさみになったこともしばしばである。スタッフへの指導もとても厳しく、厨房の人員交代はかなり激しかった。開店当初から残っているメンバーはサキと森のみだ。
 だが、それらはけして耐えられないことではなかった。ベルナール氏の厳しさはフランス修行時代に既に経験済みのことだったし、それが仕事への愛情と熱意によるものだと理解していたからだ。自分がシェフとなった今、共感を覚える部分も多々ある。彼なしでは、この店はここまで成長しなかっただろう。
 サキが本当につらかったのは、大好きな「菓子作り」に没頭する機会が減ってしまったことだった。自分の店を持つという夢には確実に近づいている。だが、近づくにつれ、好きなこととは別の問題にどんどん時間を奪われていく。
 好きなことだけやっていても、夢が実現しないことはわかっている。自分の進んできた道への後悔はまったくない。ただ、無心に菓子作りだけに取り組むことが許されたあの頃が、少しだけ、懐かしく思われるのだった。
「……どうしてっかな」
そんな思いを抱く時、一緒に思い出す男がいた。サキを今までの人生の中でいちばん悩ませた、あの男───柴山拓人。
 彼とはあの後、すっかり縁が切れてしまっていた。出立の日取りなどを告げたにもかかわらず、彼は送別会にも見送りにも現れず、結局二度と会うことはなかったのだ。そして、松野からの情報によると、サキがいなくなってすぐ引っ越してしまい、行方知れずになったという。一度電話してみたが、番号が変わっていて繋がらなかった。
 彼を思うと決まって、胸がしくりと痛んだ。今まで何度も、店を変え土地を変えて修行してきた。ゆえに、親しい人間との別れも何度も味わっている。だが、こんな思い出し方をするような別れは他になかった。何しろ、誰かにあんなことを言われたのは生まれて初めてで───
「シェフ、朝礼ですよ」
遅いので呼びに来られてしまった。あわてて鉛筆を置く。
「今行く」
ドアを開けると、フロアには新旧スタッフが既に勢ぞろいし、店長の挨拶を聞いていた。足早に、店長の横に用意されたスペースに向かう。新スタッフの顔ぶれをざっと眺めてみると、一人、ひときわ背の高い男が……

「ええぇ?!」

「どうした、崎谷シェフ」
驚いた店長が声をかけた。しかしサキは二の句を継げず、皆の注目を浴びたまま、その男の顔を凝視している。
 と、男が、こらえきれずに噴き出した。視線が一斉にそちらに移動する。
「君、シェフの知合い?」
店長の質問に、男は笑いの残る顔で答えた。
「はい、シェフの前の店で。その頃はまだサラリーマンをやっていて、客でしたけど」
「ほう。それは面白い縁だね。じゃ、自己紹介は君からにしようか」
「はい」
白シャツに黒ベストとスラックス、腰から下に黒のタブリエ(エプロン)というギャルソンスタイルの制服を身に着けた長身の男は、一歩前へ出ると
「フロア担当の柴山拓人です。よろしくお願いします」
と、元体育会系らしいきびきびとした動作で一礼した。