甘い運命 (26)


「で、なんでお前がここにいるんだ?」
腕組みをしたサキは、目の前に立つ男を見上げながら、咎めるように言った。
 ここはプティ・エマの裏手にある小さな公園。朝礼の後、サキは柴山の元にすっ飛んでいき、同じことを尋ねた。すると柴山はにやりと笑い、「その話は長くなるから、後でな」と、勤務終了後にここで待ち合わせることを提案したのだ。
「お前を追いかけてきたんだ」
真似をして腕を組んだ柴山が、からかうような顔で答える。
「冗談やめろよ」
「冗談じゃないよ」
サキはその台詞に混じる真剣な空気を感じ、一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐに気を取り直す。
「お前、来なかったじゃん」
「どこに?」
「送別会。この…」
「ああ、俺のも同じ日だったんだ。だから無理だった。ごめん」
薄情者、と続けようとしたサキは言葉を失ってしまい、しばし、無言の時が流れた。
―――あきらめるつもりだったんだ」
柴山が、つぶやくように言った。
「あきらめるつもりで、帰ったら、マドレーヌが残ってて。それが、すっげえうまくて」
一呼吸おく。
「もう一回、食いたくなったんだ」
「……はあ?」
あきれたような反応も気にせず、柴山は、
「シュークリームの時は、偶然見つけられたけど、もう偶然はないだろうから」
サキをまっすぐに見つめ、言った。
「今度は、手に入れる努力をしようと思って」
 柴山は急遽、会社に辞表を提出し、佃をはじめとする関係者各位を混乱させつつ退職した。そしてすぐに1年制のビジネススクールに入学。店舗経営のノウハウなどを学んだ後、販売及び接客技術を習得すべく、大手チェーンの洋菓子店にアルバイトとして就職したのである。
「これが、意外と性にあっててさ」
洋菓子店の主要客層はなんといっても女性である。女性に受けのいい柴山の仕事ぶりは好評だったし、トレーニングで培った体力は連日の立ち仕事を支えてくれた。そうして経験を積んでいたところにたまたま、プティ・エマがカフェの求人を行うという情報が入ってきた。
「そろそろ、連絡取ってもいいかなと思ってた頃だったんだ。だから、ちょうどいいかなって」
とはいえ、カフェスタッフは今とても人気のある職種、しかもプティ・エマはスウィーツ関連の雑誌にしょっちゅう掲載されるほどの人気店である。まあ駄目もとでと受けてみたのだが、なんと、高競争率をくぐり抜け、見事採用されたというわけだ。
「…なんで、黙ってたんだよ」
拗ねたようなサキの声に、柴山は、
「落ちたら恥ずかしいだろ?」
と笑った。が、サキは笑わず、
「そういうことじゃなくて。なんで今まで、黙ってたんだよ」
と言った。
「……続くかどうか、自信がなかったんだ」
柴山の笑いは、苦みを加えたものに変わった。
「俺は凡人だからな」
そう言ってかすかに、自嘲めいた色を浮かべたが、それはすぐに消え去り、
「だから、ここにいるのは奇跡みたいなもんだと、今も思ってる」
謙虚な、穏やかな表情が残った。


「サキ」

「俺は、お前のパートナーになりたい」

「もちろん、仕事だけじゃない。公私ともに、ってことだ」

「そして、お前と一緒に、お前の夢をかなえたい」

「どうだ?」


 まだ、信じられなかった。
 この男が、もう一度自分の前に現れるなんて。
 しかも、わざわざ、自分に足りないものを身につけて。


「今すぐに答えろなんて言わないよ」
押し黙ったままのサキに、柴山は、
「準備に三年かけたくらいだ。気は長い方だと思うぜ?」
と、おどけた調子で言った。

「それより先に、ひとつ、頼みがあるんだけど」
「…なんだ?」
柴山は真顔になって、
「あのマドレーヌ、もう一回作ってくれないか」
と、希望を伝えた。
「あの後、ラ・フルールでマドレーヌ買ったんだ。でも、全然味が違ってた」
思い出すように、目線を上に向ける。
「こっちの店のも食ったけど、やっぱ違うし」
サキはじっと柴山を見つめていたが、やがて、おもむろに口を開いた。
「あれは…、Madeleine à ma façon」
そして、いきなりの横文字に戸惑う柴山をよそに、
「オレのオリジナル。オレンジの花の蜂蜜が入ってる」
と続けた。
「オレンジの?」
「ああ。いい蜂蜜でさ、高いんだ。しかも量使うし。だから、店じゃ出してない」
「…なるほど」
柴山が花田オーナーの言葉を思い出していると、
―――あの頃」
サキが、語り始めた。


「あの頃、あのマドレーヌ作りながら、オレ、お前のこと考えてた」

「何悩んでんのかなとか、これ食ったら元気になるかなとか」

「わかってたんだ。商品にできないってのは」

「でも、一回、お前に食わせようと思ったんだ」


 目を閉じる。

 そして、開く。


「オレ、拓人のこと好きだよ」

「これが、その、恋とか愛とかかってのはわかんねーけど」

「お前と一緒に夢をかなえたい」

───そういうのでも、いいか?」


 柴山はその問いに微笑みで答えた。
 贅沢は言うまい。
 菓子をこよなく愛するこのパティシエが振り向いてくれただけでも、とんでもなくラッキーなのだから。

「よろしく」

 握手を交わす二人の頭上には、蕾ほころび、花咲きはじめた桜。
 春が、来ていた。


−終−