運命の人 (1)


 金曜の夜、糸を引くような細い雨がしとしと降り注ぐ駅の出口。柴山は、あと一歩前に出れば梅雨どきの雨に打たれる風情を味わえるだろう屋根の下で、杖のように傘をついたままぼんやりと立っていた。前の通りを、傘をさした人々が行きかっている。週末ということもあり、十時近いにもかかわらず交通量はそこそこ多い。
 と、そのうちの一人が、足を止めた。
「拓人?」
名を呼ばれてよく見れば、先日知り合ったばかりのパティシエ、崎谷亮介――サキだった。右手に傘、左手にはスーパーの買物袋と紙袋を下げている。
「よう」
返事をすると、
「やっぱそうか」
と近づいてきた。
「何してんだ、こんなとこで」
柴山は、今の状態を簡潔に、そして自嘲気味に説明した。
「女に振られて、飲みに行くか、帰って寝るか、考えてるところ」
「え」

 話は少々さかのぼる。柴山は、彼女と待ち合わせていた別の駅前で待ちぼうけをくっていた。時おり電話をかけるが繋がらない。あまり時間に正確な女ではなかったし、雨も降っていることだしと自分に言いきかせて二時間。これで最後と思ってかけたら繋がった、その第一声は。
「しつこいわね、あなたも」
面食らって対応できずにいたところ、なんと男の声に変わった。
「いいかげんあきらめたら? 彼女迷惑してるし。あんまりしつこいと訴えるよ?」
「……」
 どうやら自分は、たった二時間の間に彼氏からストーカーになったらしい。彼女にとっては二時間ではなかったのかもしれないが。
 関係が冷めてきているという自覚はあった。だが、デートの約束をしておいてそれはないんじゃないだろうか。しかも二股かけた上に一方的に悪者扱いか。それは人としてどうなのか。
 状況を理解し、いろいろな感情が湧いてきたのは、不幸なことに電話を切られた後だった。そして、携帯を床に投げつけたい衝動をかろうじて押さえ、とりあえず家の最寄駅まで戻ってきた柴山は、これからやけ酒を飲みに行くか、それとも帰ってふて寝するか、考えていたのだった。
「なんだそりゃあ」
話を聞いたサキは不快感をあらわにした。
「サイテーな女だな。そんなのと付き合っててもロクなことねえって。別れられて良かったじゃん」
「そうかな」
「そうだって」
一応、お互いに好き合っていた時期もあったのだ。まあでも、ここまでコケにされてなお取り返したいと思うような女じゃないということは確かだった。
「そうかも」
「だろ」
妙に納得したところで、サキからやけ酒・ふて寝に続く第三の選択肢を提案された。
「晩メシまだなんだろ? お前の分も作ってやるからうち来いよ」
思ってもみない展開に少々驚く。
「サキ、料理もできんの?」
「三度のメシまで菓子食ってるわけねーだろ。その代わり、これ持ってくれよ」
と、左手の荷物から紙袋の方を渡された。大きさのわりにずしりと重い。
「何だこれ」
「レシピ本とか色々。オーナーに借してもらったんだけど、さすがに買物袋と一緒だとキツくて。助かったー」
そう言ってサキはすたすたと歩き出した。柴山はまだ返事をしていなかったのだが、別に異存はなく、傘を開いて後に従った。

「飲むんなら買ってこいよ。オレんち、製菓用の酒しかねーから」
酒販のコンビニの前でそう言われ、いったん別れた。
 しばらく経って、ビニール袋が一つ増えた手でサキの部屋のドアを開けると、肉を焼くいい音がしていた。香ばしい匂いの漂う室内に入る。
「サキ、ビール? 酎ハイ?」
「んー、ビール」
袋からビールを二缶取り出し、生クリームや無塩バター、チョコの塊などが常備されているちょっと変わった冷蔵庫に残りを収める。
「何か手伝うか?」
「や、すぐできっから。先飲んでろよ」
テーブルには既にレタスのサラダと取り皿、ナイフやフォークなどが準備されていた。二口のコンロにはフライパンと鍋が火にかかり、トースターではパンも焼いているようだ。
「お前毎日自炊してんの?」
「大抵はな。金貯めてるし、キッチンに立つのは慣れてるし」
雑談しながらも手は休むことなく、くるくるとよく動いた。厨房で働く人間とはこういうものなのかと感心する。
 ほどなくして、湯気の立つ料理が運ばれてきた。トマトソースのかかったチキンソテーにコンソメスープ、ガーリックトースト。
「そんな手の込んだもんじゃねーけど」
サキはそう言ったが、夕食はいつも外か弁当、作れる料理はカレー程度という柴山にしてみれば驚くべきご馳走だ。
「すっげえうまそう」
「そか?」
素直な賛辞に気を良くしたらしいサキと二人、ビールの缶を合わせた。
「んじゃ、かんぱーい。ろくでもねー女にフラれておめでとう!」
「うるせーよ」
苦い笑いがこぼれた。サキの晩メシは、あの女が以前食べさせてくれた手料理よりよほどうまかった。