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 明治の文豪・夏目漱石は、1867年(慶応三年)1月5日、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町一番地)に生まれました。 父、夏目小兵直克と母、ちゑ(千枝)の五男三女の末っ子で、本名は金之助。生まれた時刻が申の刻だったために、末は大泥棒になると云われ、その難を避けるためには金偏のつく名前がいいとのこと で名付けられた。
 1893年(明治26年)東京帝国大学卒業。以後、四国の松山中学、熊本の五高などで英語を教える。
 1900年(明治33年)英語研究のためにイギリスへ官費留学。
 1903年(明治36年) 帰京。第一高等学校教授、東京帝国大学講師となる。
 1905年(明治38年)雑誌「ホトトギス」に「我輩は猫である」第一部発表し好評を博したことで文名があがる。
 1906年明治39年「坊ちゃん」を同じく「ホトト ギス」に発表。
 1907年(明治40年)教職を辞し、朝日新聞社に入社。以後「虞美人草」 (明治40年)・「坑夫」「夢十夜」(明治41年)等を連載。「三四郎」(明治42年)から「それから」「門」(明治43年)の初期3 部作を発表。明治43年6月に胃潰瘍で内幸町の長与胃腸病院に入院。7月末に退院。8月6日より、弟子の松根東洋城と共に転地療養のために、修繕儀温泉の菊屋旅館に滞在するが、24日に大吐血し危 篤状態となる。これが修善寺の大患である。10月11日に帰京し、長与病院へ再入院。29日より明治44年2月10日まで、その病中病後の心情等を綴った随筆集「思い出すことなど」を朝日新聞に連載。明治 44年2月、文学博士号辞退。その後、第二の三部作といわれる「彼岸過迄」(明治45年)「行人」(大正2年)「こころ」(大正3年)を発表する。大正3年11月、学習院で有名な「私の個人主義」の講演を行った。 大正4年には、傍観した静かで穏やかな境地から過去の出来事を回想した随筆集「硝子戸の中」を連載。つづいて自伝的小説の「道草」を連載。大正5年5月26日より遺作となる「明暗」の連載開始。11月22日 、胃潰瘍が再発。12月9日夕方、「明暗」を未完(第88回まで連載)のまま残して永眠。満49歳であった。
    
漱石展1 江戸東京
漱石展2
<漱石の部屋について>
私の趣味の中で比較的新しい部類に入るのが古書収集です。そしてそのきっかけとなったのが、夏目漱石との出会いでした。長い間本棚に眠っていた漱石本を、 通勤時間を利用して読み始めたのがきっかけでした。明治の文豪としての何処か堅苦しいイメージが長い間読まなかった理由の一つですが、これが 読み出したら面白くて…定番の「坊ちゃん」「三四郎」「吾輩は猫である」「こころ」「行人」等など、当時は漱石が作品を発表した順番など知らないので、思 い付くままに読み漁りました。その内に漱石の書いた小説以外の作品へと進んでいく頃には、すっかり漱石マニアになりました。「硝子戸の中」「思い出す事 など」などの小品(随筆)は特に好きな作品です。その後に漱石の弟子たちの作品へと進んで行くためのバイブルとなりました。漱石を囲んで語り合った“木曜会”の弟子 たちである、鈴木三重吉・森田荘平・小宮豊隆・内田百間らとの出会いが、その後に明治期を主体とした古書収集の始まりでした。新しいとはいえ、平成4年頃から始め たのでもう16年になります。この部屋では、今まで集めて来た、漱石と彼の弟子たちの著作(古書)を中心に紹介してみました。左の写真は、昨年の9月26日〜11月18日ま で江戸東京博物館で開催された、特別展「文豪・夏目漱石展」の公式パンフレットとチケットです。初めて生で漱石の自筆原稿や書画・葉書・手紙etcを見ることが出来て感激 しました。会場には私より年配の人が大勢来ていましたが、10代〜20代の若い女性も多くて少し驚きました。


鶉籠 <鶉籠>
この「鶉籠」は14〜15年前に古書店の目録から購入しました。漱石の初版本は、バブルの頃が一番高値が付いたようで、私の記憶では「我輩は猫である」(上下巻) が350万円もしたことがありました。流石にそのような値段ではサラリーマンの小遣いでは手が出せませんでした。しかし「鶉籠」を購入した頃は、初版本で15〜 30万円前後で売られていたと思いますが、まだ手が出せなくて、この3版を購入するくらいが精一杯でした。購入価格は5000円でしたが、日焼けが酷くとても美本とは いえない状態ですが、これでも漱石が存命中に売られていた書籍だと思うと感慨深いものがありました。「坊ちゃん」「二百十日」「草枕」を収録してあります。 明治40年1月1日 初版発行 春陽堂。所有のものは、明治40年3月10日の3版です。漱石の娘婿である松岡譲の著書「漱石の印税帳」によると、この「鶉籠」は初版が3000部で、こ の3版は5000部発行されています。関東大震災や第二次世界大戦など災害や戦災を経て残ったのは何部あるのでしょうか?その中の1部がいま私の手もとにあるのだと思うと 何だか大変な物を所有しているような気分です。


四篇 <四編>
「夢十夜」所収の「四篇(しへん)」。これは収集した漱石の古書の中でも数少ない初版本ですが、状態は悪くガタもあり蔵書印もあります。でも漱石 が存命中に何処かの誰かが買い求めて、読んだ後で大切に書棚にしまわれていたと思うと感慨深いものを感じます。関東大震災や第二次大戦の戦火に焼かれずに残ったことを 考えると、どこか地方の方の蔵書だったのかもしれません。そんなことを考えながらページをめくるのと、遠い明治時代がまるで自分が生きた時代のような錯覚を覚え何とも いえない懐かしさを感じます。「夢十夜」の他に、弟子の鈴木三重吉に勧められて、文鳥を飼うことになったことを綴った「文鳥」(明治41年)、日常生活の中の折々の出来事を描いた 「永日小品」(明治42年)大学時代の親友である中村是公の招待で当時の満州、朝鮮を旅した紀行文「満韓ところどころ」(明治42年)を収録。 明治43年5月15日 初版発行 春陽堂。
四篇


金剛草 <金剛草>
この「金剛草」 も古書店の目録から購入しました。内容は「素人と黒人」・「文芸とヒロイック」などの「評論」と大正3年11月25日学習院での有名な講演「私の個人主義」や「文芸と道徳」 の「講演」と「ケーベル先生」・「子規の手紙」・「病院の正月」などの「小品」と「暴風雨」・「先生と私」などの「小説」というバライティにとんだ構成になっています。この「金剛 草」は最近古書店の目録でも、ネットオークションでもあまり見掛けませんが、ジャンル別に様々な作品が掲載されていて、漱石ものの古書では私の好きなものです。 小説中の「先生と私」は「こころ」の(上)を掲載してあります。 大正4年 11月23日 初版発行 至誠堂書店。所有のものは同28日の再版です。
金剛草


硝子戸の中 <硝子戸の中>
「硝子戸の中」と書いて「硝子戸の中(がらすどのうち)」と読ませていますが、漱石自身は「中(なか)」と表記している時もあります。「こころ」と「道草」の間に位置 する小品です。私は漱石の小説も好きですが、こういう小品(随筆)が特に好きなのですが、この「硝子戸の中」はその中でも一番好きな小品です。大正3年の秋から年 末にかけて、持病の胃潰瘍などで家に籠っていた間に、硝子戸の中に居る漱石を訪れる人々との交流やそれらの思い出を通しての漱石の感情の動きが描かれていま す。硝子戸の中に居る漱石を訪れる人は、雑誌に載せる写真を撮りに来る男(無理に笑わせようとするエピソードが可笑しい)や自分の書いたものを読んで感想を願う 女や漱石を崇拝する女性との交渉などは特に印象的です。また幼少期についての思い出を描いた部分に興味を惹かれました。秋の夜長にこの「硝子戸の中」を読んで いると心が落ち着いた気分になり、私は癒されます。 大正4年3月28日 初版 発行 岩波書店
硝子戸の中


漱石の想い出 <漱石の思い出>
漱石夫人鏡子の述懐を松岡譲(漱石の弟子で長女筆子の夫)が筆録した「漱石の思ひ出」の改造社版(左写真、昭和3年11月23日初版)と岩波書店版(右写真、昭和 4年10月15日初版)です。「漱石全集」の解説や、漱石研究の基礎を確立した弟子の小宮豊隆などから悪妻と烙印を押されていた鏡子ですが、この筆録を読む限りでは まったく悪妻との印象はありません。この鏡子に対する悪妻論の反論を、漱石の次男で随筆家だった夏目伸六が自分の著作に書いていて興味深いです。
それによると、 「私の母程、天下の悪妻として、宣伝されている女も珍しいのである。尤も、この悪妻論を振り廻す大部分の連中が、小宮さんを除いて、殆ど、母とは、面識の無い人間ばか りであって、それでは、何で、彼等が、そうそうこの母を中傷するのかと云うと、父の日記、或いは書簡のところどころに、母の悪口が書いてある、それと小宮さんの著書な どを読んで、さぞかし、漱石は、この細君に、苦しめ、悩まされたのではなかろうかと思い込んで仕舞った為に違いない。が、実を云うと、そう思い込んだ筆頭は、小宮豊隆さん 自身なのであって、<以下略>」(夏目伸六著 「猫の墓」 文芸春秋社 昭和35年6月20日 初版)なんてことが書いてあります。この文章から判断すると、漱石自身が自分の妻 である鏡子に対して不平・不満を日記などに記述したことは事実なんだけれど、こういったものを真に受けたのが小宮豊隆であったということらしい。たしかに小宮豊隆は漱石を尊 敬する余りに、漱石を神格化していた部分があり、また精神的にもかなり甘えたところがあったようです。そんなところも小宮豊隆が「漱石神社の神主」と言われた由縁のようです 。もっとも漱石の死後は奥さんの鏡子にも甘えて随分と世話になった(飲食代を払ってもらったり)ようなので、かなりちゃっかりした性格だったのかもしれません。
漱石の想い出


夏目真六 <父・夏目漱石>
漱石には女6人(一人は 幼児期に死亡した雛子)と2人の息子が居たが、次男の伸六が随筆家となり最初に発刊したのがこの「父・夏目漱石」です。独特の語り口で、父漱石や母のこと弟子たちのことを様 々なエピソードとともに描いています。鬱病の疑いがあった漱石の理不尽な仕打ち(暴力)にあった当人として、大人になって自分も子の父となって初めて客観的に観た漱石のこと や、その漱石の妻であり母親鏡子についてなど興味深い話しが綴られています。漱石の暴力については、「その瞬間」、私は突然怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はっとした時には 、私は既に父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上に倒れていた。その私を、父は下駄ばきの儘で、踏む、蹴る、頭といはず足といはず、手に持ったステッキを無茶苦 茶に振り廻して・・・以下略」<本文中、父夏目漱石から抜粋>と凄まじい体験談が綴られています。「漱石の思い出」にも記述しましたが、母親を悪妻と決め付けていた弟子たち、特に小宮豊隆に対 する批判などは興味を惹かれます。昭和31年11月20日 初版発行 文芸春秋社 250円。


夏目真六 <猫の墓>
猫塚(現:新宿区の弁天町の漱石公園 内)を眺めている伸六さんの姿が表紙です。内容は「岩波茂雄さんと私」・「愛馬進軍譜」・「マンノ家の人々」・「お正月」・「父の胃病と”則天去私”」・「父・臨終の前夜」・「母のこと」などの随筆 が収録されています。自分の母親鏡子の悪妻論に対する反論は本文中の「母のこと」に記述されています。序文に漱石の弟子で借金王などと呼ばれて、1993年に黒澤明監督の遺作「まあ だだよ」のモデルとなった内田百閧ェ書いている。その一部「<略>〜防空演習の『演習空襲警報』が発令されたと云うので、<略>煙草に火をつけ口にくはへた儘駅の外へ一歩外へ出た ところへ、防護団の若い衆が暗闇の中から飛び出してきた。何です、煙草を食はへた儘、その火は一千米の上空からはっきり見えますぞ。そんな事はないと思ふけれど恐れ入って、煙草の 火を揉み消した。これを以って夏目伸六君著『猫の墓』の序へ代える。」 昭和35年 6月20日 初版発行 文芸春秋社 250円。


松岡譲 <漱石の印税帳>
漱石の長女である筆子と結婚した松岡譲の 著作「漱石の印税帳」です。漱石晩年の弟子である、芥川龍之介、久米正雄らとともに木曜会(漱石と面会する定例会)のメンバーとなったのが松岡譲です。松岡の代表作は、寺院の内部腐敗を描いた「法城 を護る人々」ですが、前述の夏目鏡子の「漱石の想い出」を筆録したり、「漱石の漢詩」で漱石の漢詩に関する意義に注目しました。10篇の随筆から構成されていて、表題の「漱石の印税帳」では漱石の著作 物の検印部数表が出版社別に掲載されています。また「贋漱石」では、書画の贋物に関して、自身の体験から紹介されていて興味深いです。今日この著作は漱石研究の必携の書となっているので、古書価も高 くまた中々出ません。時々ネットオークションで見かけますが、1万円前後で取り引きされているようです。所有のものは古書店の目録で購入しましたが、10年程前で3000円だったと思います。 昭和30年8月5日 初版発行 朝日新聞社 100円。


松岡譲 菊屋便箋 <漱石先生>
この書は松岡譲が漱石門下になってから20周年 を記念して出版されたもので、収録されている随筆も20篇となっています。収録の「漱石のあとを訪ねて」では、漱石の未亡人鏡子と一緒に九州旅行をして、漱石所縁の地を訪れています。 また「修善寺の詩碑」では、修善寺の公園“虹の里”に建立されている「夏目漱石漢詩碑」が建てられるまでのエピソードが綴られています。尚、この“虹の里”には、修善寺の大患時に病臥していた菊屋旅 館から移築復元された漱石滞在の部屋(大患の間)があります。私は11年前に人間ドックで伊豆に来た折に、帰りに寄って来ました。その翌年には家族を連れて再度見学して、菊屋旅館に1泊して来ました。 何とその時に泊まった部屋は漱石が最初に泊まった部屋で、「今の部屋は前にも山が見え、後ろにも山が見え。寝ていると頭も足も山なり。好い部ならん。」(漱石全集第二十巻日記・断片 下より)の部屋で 結局部屋は変えてもらうのですが、漱石が泊まった部屋というだけで感激してしまいました。もっとも妻は「もっと新しい部屋がいい!」と不満気でしたが。その時部屋の写真を撮ったので、探して出てきたら 掲載したいと思います。書籍の右側の写真は泊まった部屋に置かれてあった菊屋旅館の便箋です。記念に何か書こうかと思っていたのですが、結局何も書かないまま持ち帰りました。 昭和9年11月20日  初版発行 岩波書店 壱円五十銭(すごい値段だ)購入価は2800円。


漱石山房の記 <漱石山房の記>
私が、漱石の門下生中でも特にお気に入りな内田百閧フ著作「漱石山房の記」です。百閧ヘ明治22年(1889年)岡山市の造り酒屋の一人息子として生まれ、本名を内田栄造といい百鬼園とも号します。 小説では『冥途』 ・ 『旅順入城式』・『阿房列車』などが有名ですが、百闢ニ特の風刺とユーモアに溢れた随筆が特に好きです。この「漱石山房の記」は師である漱石に関する随筆が16編、同じ漱石門下生の芥川龍之介に関する随筆が6編、鈴木三重吉が1編、そして小説「田舎教師」の田山花袋を偲んだ「花袋追慕」が収められています。どの随筆も面白いのですが、漱石の「紹介状」から一つ紹介すると「<前略>漱石先生は居留守を使はないだろうと云ったけれど、そうでもない話を覚えている。玄関に来た某社の記者が余りうるさいので、女中がまた書斎に来て、いくらお留守だと云っても帰らないと告げたら、漱石先生が腹を立てて、自分で玄関に出て行った。そうして相手の面前に突つ起って、いないと云つたらいないよと云ったと云ふのである。<後略>」。昭和16年2月10日、秩父書房の発行が初版ですが、所有のは昭和16年12月15日の12版です。定価1円80銭で購入価格は2500円でした。


東京焼盡 <東京焼盡>
内田百閧ェ戦争中の昭和19年1日から20年8月21日までの出来事を日記として綴ったものです。百閧ヘかなり若い頃から日記を書いていて、「百鬼園日記帳」・「続・百鬼園日記帳」などが有名です。「東京焼盡」は敗色が濃くなった時期、毎日のように襲ってくるB-29の空襲を受けて、東京が壊滅して終戦を向かえるまでの日々の暮らしが実に凄絶に生々しく描写されています。このころ百閧ヘ日本郵船会社の嘱託として働いていた時期で、毎日電車で通勤していました。文中には「夕省線電車にて帰る」と記述されています。省線電車とはいまのJRのことで、この頃は鉄道省であり後に国有鉄道の国電になり、現在のJR東・西日本旅客鉄道になりました。百閧ヘ昭和20年3月10日の東京大空襲を経て、5月26日の空襲で麹町5番町にあった住まいを焼け出され、3畳の掘立小屋を借りて住むことになります。蚤や蚊に悩まされ、日々の食糧にも事欠いたこの掘立小屋での生活は黒沢明監督の遺作「まあだだよ」にもかなりユーモラスに描かれています。文中に「ヒトレルに誤まられて独逸国民は誠に気の毒だと思ふ」という記述もあります。ヒトレルとはヒトラーですが、百閧ヘ東京帝国大学独逸文学科を卒業しているので、ヒトラーはヒトレルが正しいのかも?昭和20年1月6日の記述。空襲の時の情報放送で、「<略>東京都の上空うと云えば飛んでもない所まで含まるので、困った挙げ句に、帝都の上空と云ふ云ひ方を阿呆の一つ覚えの様に使いだした。いやな言葉だからこっちでは使ってやらぬ也。」此の辺が百關謳カらしくて好きなところです。所有のものは昭和30年4月20日初版発行 大日本雄辨會講談社 定価280円で古書店での購入価格は10年前で2500円でした。 


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