ホーム  |   生き方を考える  |   闘病記  |   免疫を高める療法  |   元気が出る本  |   リンク
 
M E N U
 
 ホーム
 生き方を考える
 闘病記
 免疫を高める療法
 元気が出る本
 リンク
 

 

 
最終更新日: 2004年3月31日
 

▼一番下へ

1.2003.9.12 「ガン告知を前向きにとらえよう」

 私もガン告知を受け、現在闘病中です。 ガン告知を受けた当初は「なんで自分がこんな目に会わなけれならないのか?」、「もっと不養生の人が沢山いるのになぜ自分が?」、「何かの天罰であれば世の中にはるかに悪いことをしている人は沢山いるのになぜ?」といった疑問にさいなまれ、そんなことばかり考えていました。でもいくら考えても納得のいく理由は見つかりませんでした。
 そうこうするうち、「これは何かを学ぶために自分に与えられた試練ではないだろうか?」とふと考えるようになりました。人生の先輩の話では「人生には何一つ無駄なことは無い。あとで振り返ってみれば、あの経験はこういう重要なことを学ぶために必要であったのだ、ということがわかるはずだ。」とおっしゃってました。私もそうであれば良いと思います。そのためには、ガンを克服して乗り越えることが必要です。もし神が存在して、神がそういう試練を学ばせるための機会としてガンを設定しているならば、生き延びてそれを教訓としてその後の人生が歩めるように仕組まれていて良いはずです。そう信じて前向きにガンと闘い克服し、後でガンになったことは自分の人生にとって貴重な意味を持っていた、と言えるようになろうではありませんか。
 このホームページの「元気が出る本の書評」に載せている「ただマイヨ・ジョーヌのためだけでなく」の著者である自転車選手ランス・アームストロングは、身体の異常を自覚して病院に駆け込んだ時には睾丸癌がすでに肺と脳に転移し、生存率3%の状態でしたが、それを克服してカムバックし、最も過酷な自転車レース(23日間で4000キロを走破)であるツールド・フランスで優勝しました。彼は「癌は僕の人生に起こった最良のことだ。・・・僕は癌から逃げる気は無い。人生で最も重要な、人生を形作ってくれたものを、忘れたいと思う人などいるだろうか。」「本当の話、ツール・ド・フランスでの優勝と癌のどちらを選ぶか、と訊かれたら、僕は癌を選ぶ。奇妙に聞こえるかもしれないが、僕はツール・ド・フランス優勝者といわれるよりは、癌生還者の肩書きを選ぶ。それは癌が、人間として、男として、夫として、息子として、父親としての僕に、かけがえのないものを与えてくれたからだ。」と言っています。
 私たちも彼のような鮮やかな第二の人生を歩みたいものです。 ガンは第二の人生、内的生活、よりよい生活への道へと結びつくキッカケになり得るのです。

※ランス・アームストロングのホームページ Lance Armstrong OnLine
 → http://www.lancearmstrong.com/
※ランス・アームストロング基金(癌と闘う人を支援する基金)のホームページ
 → http://www.laf.org/

2.2003.9.15 「本人へのガン告知の是非」

 私の場合はおかしいと思って病院で診察を受け即入院となり、その後各種検査により悪性腫瘍と判断された際に、家族を呼んでくださいと言われ、家内と一緒にその場で「にらんでいたとおり悪性でした」と告知されました。あまりにもあっけなく告知されたので、「もう少し配慮があっても良いのでは?」と思ったこともありますが、今になって思えば早く正確な病名を知って良かったと思っています。
 末期ガンの場合は、家族にだけ告知して本人に告知しない医師も多いようですが、個人的には正確な病名や治療計画、治療に伴う副作用や後遺症、治療方法が複数あればその優劣について、主治医はできるだけ正確かつ詳細に本人および家族に伝えることが必要だと思います。
 問題なのは、無責任な生存率や余命の告知だと思います。あと数ケ月の命と言われながら今も元気に生きている人は私の知っている人でも何人もいますし、ランス・アームストロングの場合も、担当医は当時生存率は3%と考えていたと答えていますが、見事にカムバックしています。
 生存率90%と言われても死んでしまえば、「運悪く残りの10%に引っかかりました」と言われるだけですし、余命3ケ月と言われてそれよりはるかに長生きすれば「奇跡的」と言われておしまいです。結局は病状が同じでもどれだけ生きるかは人によりマチマチであり、その後の生活習慣の改善具合などにも依存すると思いますので、ほとんどあてにならない数字ではないでしょうか? それを言うことによって患者にショックや希望を失わせるとすれば「百害あって一利無し」です。したがって医師は生存率や余命を聞かれた場合でも「それは場合により異なるので何とも言えません」とか「前向きな気持ちで闘病すれば生存率は上がりますよ」などのように答えるべきではないかと個人的には思います。
 欧米では、医師の経歴などがオープンにされており、セカンドオピニオンなど他の医師の意見を聞くことなどが一般的になっているようですが、日本ではまだまだの状態です。ではありますが、自分が現在の治療方法を評価したり、他のよりよい治療方法、よりすぐれた医師や病院は無いか、などを主体的に調べることは重要なことだと思います。結局は自分の身体であり、家族に最も影響が大きいわけで、医師は回復に向けできるだけの努力をしてくださいますが、死に対して責任をとってくれるわけではありません。
 医師に盲目的に自分の身体や生命をゆだねるのではなく、主体的に取り組むことが重要だと思います。

3.2003.9.17 「ガン告知が本人と家族にもたらす波紋」

 私が医師からガン告知され「詳細を話すから家族を呼んでください」、と言われた時に、家内に連絡しようと自宅に電話をしましたら、あいにく家内は外出中で長女が電話に出ました。「お父さんはガンだそうだから、お母さんに連絡がついたら、今日すぐ病院に来れるか確認しておいて」と何気なく頼んだら、長女は父がガンであることを知り、相当ショックを受けると同時にかなり動揺し泣きもしたようです。私自身はかなり冷静であり、腫瘍自身が悪性か良性かは五分五分ぐらいと元々考えていたことや、死に至るまでの苦痛は避けたいが、死そのものに対する恐怖は無かったことから、「なるようにしかならないよ」などと言ってのんきに構えておりました。
 考えてみればこれはかなり無責任な態度です。自分は死んであの世に行くだけですが、残った家族は大黒柱を失った状態で生活や進学のための収入をどうするか、父親や伴侶の無い余生を暮らさねばならない心細さなどに直面し、乗り越えていかなければならないわけで、「なるようにしかならないよ」では困ります。「何としても克服するぞ」の意気込みでいて欲しいわけです。
 私もその後の家族の献身的な姿や心底私のことを心配してくれる姿を見て「何としても克服するぞ」の意気込みが沸いてきました。やはり闘病には家族やともに闘う仲間のはげましが何よりも前向きな姿勢につながり、その積極的な姿勢こそが克服につながるのではないかと思います。

3.2003.9.21 「ガン経験がよかったと将来思えるとすればそれは何か」

 ガンのような死に直結する病気の告知を受けると、人は誰でも人生について否応無く考えざるを得ないと思います。私の場合も、「今まで生きてきた人生はどうだったか?」「このまま生き延びることができたならば、今までどおりの人生を歩んで良いのか?」「同じ生活パターンでは再発するのでは?」といったことをよく考えます。
 また、家族が自分以上に自分のことを心配してくれ、毎日病院に見舞いや差し入れをしてくれたりなど、その献身的な姿には改めて感謝するとともに、家族のありがたさや暖かさ、大切さを身にしみて感じます。また旧来の知人や会社の同僚なども遠くから折角の休日に見舞いに来てくれたり、ガンの闘病に役立つ本や健康食品、お守りなどをくれたりなど心配してくれます。
 自分もできるだけ病気に苦しむ人を思いやり、その人々に少しでも役立つことが今後の努めである、という思いを強くしました。(このホームページもその一環です)
 またガンになったことで、自分が今まで病気を患っている人々の側に立ったものの見方・考え方を全然していなかったことを痛感させられました。これまでにも病気遺児の育英会に募金すると、遺児の状況が書かれた新聞や遺児からの年賀状などが家に届いたりして、気の毒な状況に同情していました。ですが、自分の家庭が同じような状況に突然立たされるかもしれないという思いは、もう少し年をとって身体のあちこちが悪くなったらあるかもしれないな程度には考えていたにせよ、かくも身近にかつ突然にやってくるとは考えてもいませんでした。またガンの初期症状が出始めた時に、ある会で前立腺ガンを克服した方が自分の経験を紹介し皆に警告をされていた話ですら、自分には直接関係の無いことのように聞いていたのでした。

 ガンになったことが克服後によかったと思えることがあるとすれば、私の場合には
  ・人生を見つめなおす機会を得た。
  ・家族の絆が深まった。友人・知人への感謝の思いが深まった。
  ・病気を患っている人々の側に立ったものの見方・考え方ができるようになった。
  ・毎日生きていること、家族と過ごせることのありがたみを実感した。
  ・病気を患っている人々に役に立つための活動を行なうきっかけとなった。
といった事が挙げられると思います。

 とりわけ最後の「病気を患っている人々に役に立つための活動を行なうきっかけ」は私にとっては意味深いものです。これまで他人の役に立つ行動を実践することを頭の中では思い描いていましたが、実際の活動に結びつくことなく、何年も過ごしてきました。こうしてこのホームページを作り、それを見た方が一人でもほんのわずかでも元気づけられた、と感じていただけたならそれに勝る喜びはありません。

4.2003.10.2 「ガン経験者だからこそできること」

 ガンと闘っている人たちに何らかの形で貢献したいと考えているガン経験者は多いのではないでしょうか? ガン経験者であればこそガンで闘っている人たちが共感でき、励まされることも多いと思います。
 たとえば、ガンの経験の無い人から「笑いは免疫に良いから大いに笑いましょう!さあ笑ってください」なんて言われて、素直に笑える人はいるでしょうか? ガンの経験者であれば「笑いや前向きな姿勢が免疫に良いそうですよ。なるべく朗らかにいいことだけ考えて、今度は病院でなく普通の場所でお会いしましょう」と言ってその人自身が明るく振舞っていればどうでしょうか? 励みになり、自分も明るく振舞ってガンを吹き飛ばそうという気になります。
 同様に治療で髪の毛が抜けてしまったときに、ガンの経験の無い人から「そのうち生えてくるから大丈夫ですよ」と言われると傷つくか、カチンと来ると思います。ところが、ガンの経験者が「私も全部抜けましたが、そのうち生えてきましたから大丈夫ですよ。もっとも元からハゲだったところは生えてきませんでしたけどね」なんて言われたらどうでしょう。そんなに心配しなくて良いのかと思えます。
 このようにガンで闘っている人たちをより心の底から励ますことができるのは、ガン経験者だと思います。私も早く克服して一人でも多くの方を励ますことができればと思います。

5.2003.10.14 「ガンの治療法や副作用を知っておくことの重要性」

 先般より国立弘前病院で放射線の過剰照射が問題になっていますが、実際には氷山の一角で表に出ていないものも多々あるように思われます。
  製造業では現場のQC活動が進んでおり、事故が起きると責任者・管理者は原因分析と再発防止策、水平展開(他の部署や似たようなケースで防止策が適用できないか)を報告し、対策を実行するまでフォローされますが、私の見るかぎりでは医療現場では人命に直結している割には再発防止策、水平展開が徹底していないように見受けられ、再発しない仕組みを構築しないがために人為的ミスが繰り返されているように思われます。 人為的ミスは決してゼロにはなりませんし、それでなくても医師も看護師も多忙で疲労もたまっているのですから、余計に人為的ミスが発生しやすい環境にあると思います。
 患者側もできる限り医療ミスから避けるには、治療法や副作用などについて事前に知識を持ち、治療に疑問がある場合は確認することが重要です。自分の身体、命ですので、なすがままというのではあまりにも無防備です。もちろん医師や看護師を信頼することは重要ですが、ミスも受け入れてしまうことは信頼を損ねる原因となります。ミスはお互いに防ぐ必要があります。
 私の場合も放射線治療で、治療計画を聞いたとき全30グレイを照射するということでしたが、1回の照射量が医師からは2グレイ、看護師からは1.5グレイと説明されました。そこで、2グレイx15回なのか1.5グレイx20回なのか確認したところ、医師から「1.5グレイx20回でした。間違えてすみません。」とのことでした。
 この場合は簡単な計算ミスなので自分でも容易にチェックできますが、多くの場合は患者側でチェックできないかも知れません。でも点滴を受ける場合も、点滴液が何なのかわからない場合には私は看護師に毎回聞くようにしています。
 治療法だけでなく副作用、特に一生治らない可能性のある副作用は良く聞いておく必要があります。私の場合は放射線療法・化学療法の一生治らないかも知れない副作用として、味覚障害(舌の味覚が戻らない)、肺がへこんで戻らないことについて、治療前でなく治療中・治療後に一生治らない可能性のあることを知りました。
  またいまだに説明を受けておらず最近自分で調べて知った副作用に、「がんの治療では、放射線や化学療法などによって精巣の精子を作る機能が衰えたり、なくなったりする恐れがある」というのがあるようです。この場合、治療前に精子を採取して凍結保存しておけば、人工授精などによって子どもを持つ可能性を残すことができます。これは事前に知っているかいないかで、その後の人生にも大きな影響があります。医師から説明がなくとも、知っておれば自分から申し出ることができます。
 以上のように、治療法・副作用を事前に知識として持っておくことは、医療ミスの防止や一生治らない副作用への対処などに関して重要な意味を持ちます。そのためにも詳細な病名をきちんと知っておかねばなりません。また患者を取り巻く家族の方はできるだけ病気に関する治療法や副作用についてインターネットや書籍などで調べて、患者に正確な知識をできるだけ沢山教えてあげて欲しいと思います。
読売オンライン 医療ニュース「精子の凍結保存、未婚男性のがん治療などで容認」

6.2003.10.15 「ガン患者に対して家族がしてあげられること」

  2003/10/7のNHK「生活ほっとモーニング」で「(がん患者の)家族の悩み」のアンケート(複数回答)結果では
 ・何をしてあげられるのかわからない=35%
 ・正しい情報を知りたい=32%
 ・経済的な問題=15%
 ・不安を話す相手がいない=9%
 ・その他=26%
でした。家族が、苦しんでいるガン患者に対して「何をしてあげられるのか」「何をしたら良いのか」が具体的にわからないために家族自身が悩んでいます。私の家内も私が入院中に「何をしたらよいのか」を主治医に聞いたら「栄養のつくものをどんどん持ってきて食べさせてあげてください」と言われ、「自分の貢献できることが見つかってほっとした」と言っていました。
  2003/9/30のNHK「生活ほっとモーニング」で「がん体験者の悩み」のアンケート(複数回答)結果では
  ・がん再発の不安=74%
  ・治療方法=19%
  ・主治医との関係=15%
  ・食習慣=15%
  ・家族との関係=14%
  ・その他=28%
とのことでした。これからもわかるようにガン患者は「死への恐怖・不安」を感じ、治療後も「再発の不安」を感じています。また今の治療方法がベストなのか、他の治療方法は無いのか、他の治療方法との長所・短所はどうなっているのか、どんな副作用があるのかなど治療方法に対する知識にも飢えています。治療中や治療後の食習慣もどう改善したら良いのかわからない、どう改善したらよいかわかっても、その通り実行するのが難しい、などの悩みがあります。
 以上のことから、ガン患者の家族がガン患者にしてあげられることは、
 ・できるだけそばにいてあげる
 ・人生のことや悩み・不安について聞いてあげる、率直に話し合う、共感する
 ・一緒にガンと闘う運命共同体であるという意識で接する
 ・哀れみをもって接しない、将来への希望をもって前向きな意識を保つ
 ・ガンの治療法や副作用などに関する情報を入手し患者と知識を共有する
 ・食事療法などの実践に協力する
 ・体力回復や免疫力回復の実践に協力する
といったことかと思います。情報についてはインターネットが利用できればかなり詳細な情報が入手できます。インターネットが利用できないお知り合いのご家族にガン患者が居られる場合には代わりに調べてあげて渡してあげると喜ばれると思います。
 このホームページは私にとっても、調べた知識の保管庫や考えたことの記録として残るので重宝しています。同じガンの患者の方に役立てば幸いです。そのためにもガン生還者として長く生き延びることが必要だと感じています。生き延びてこそ実践した療法などが他の同じガンの方の参考になります。

7.2003.10.15 「ガン患者に対して、してはいけないこと」

 以下に自分の体験・経験から、して欲しくないと感じることをまとめています。

(1)療法や人生観・価値観・宗教観などの無理強いはしない
 ある方は「ガンになったのは何か悪い因果があるのではないか」とか「先祖に浮かばれない霊がいてその霊障ではないのか」などとおっしゃる方がいます。その関連の宗教本を下さったり、関連宗教団体へ連れて行こうとされます。心配して解決してあげようとしてくださるのかもしれませんが、私自身は「人生はいろいろな試練を通じて向上するための場」と考えています。従って今回のガンもそのための試練の一つと考えています。何のための試練かは本当のところは「神のみぞ知る」のでしょうが、自分なりに考えてみると、「大病や障害と闘っている方やその家族の思いを知る」ことと「そのような方々に何らかの形で社会的に貢献していく」ことの機会が与えられたのだと思います。
 病気や障害が「悪い因果」だとすれば、何の波乱も無い人生がベストなのでしょうか?人間は苦しいときにこそ、同じ苦しみを味わっている人の気持ちがわかり、その苦しみを乗り越えてこそ成長するものだと思います。また仮に「悪い因果」の結果だとしても、宗教団体に行って話を聞けば「悪い因果」が解決されるとも思っていません。今生あるいは(前世があるならば)前世での悪い行いの結果だとすれば、自分自身がその行いを償わないと悪因果は解消されないと思います。こうして自分が大病を患い、その思いを味わい、同じ大病を患う人々に貢献することそのものが、因果の解消になっているのではないでしょうか?それ以外の因果の解消方法がありえるのでしょうか?
 かような私の人生観・価値観・宗教観も私が個人的にそう考えているだけで、他の方にとって同感できるものかどうかはわかりません。共感していただける部分は共感していただき、この部分は受け入れられないという部分は受け入れられなくて当然だと思います。宗教でも何でも鵜呑みにすることは危険だと思います。自分の良識や善悪の判断に則って自分なりに納得できる部分を取り込んでいくべきだと思います。
  他人への宗教や価値観の押し付けは、いくら自分が良いと思っていても他人が良いと思うかどうかは別ですので止めるべきです。本当に必要なものであれば、必要な時期がくればその人から求めてくるでしょう。受け入れる気がない人への無理強いはその方にとって負担になるだけです。近い関係であればあるほど大きな重荷になります。病気と闘っている中でさらに負担をかけることはよくないことです。しかも「因果」「霊障」という考え方は「ネガティブ指向」です。ガンを機会により良い人生を歩む姿勢の方が「ポジティブ指向」です。前向きに明るく生きていきましょう。

(2)「頑張れ」の連発はしない
 治療の副作用に歯を食いしばって耐えているときに、見舞いの方々が帰り際に何気なく「じゃあ頑張って」と挨拶代わりに声をかけますが、これは患者にとっては嫌なものです。毎日耐えがたい苦しみにも頑張って耐えているのに、「もっと頑張れ、今の頑張り方では足りない」、と言われているようで悲しくなってしまいます。深い意味は無いことはわかっているのですが、毎度毎度お見舞いのたびに言われるとつらいものがあります。

(3)あなたと私は違う世界の人間みたいな接し方をしない
 自分もガンになる前はそうだったかも知れないのであまり偉そうなことは言えませんが、いかにも哀れな人のような言葉をかけられると、自分がミジメになったような気がします。まるで相手が「あなたはガンで死と向き合っている人、自分はガンとは無縁の人」と思っているみたいに思えてきて、「あなたも明日にでもガンと診断される可能性が無いわけではありませんよ」と言いたくなってしまうことがあります。ガン患者はガンの状態に一時的にあるだけで同じ人間です。特殊な人間ではないのです。妙な特別扱いは患者にいろいろなネガティブな思いを引き起こします。いたって普通に明るく接していただきたいと思います。

8.2003.11.10 「大病に打ち克つ心の持ち方」

 「闘病記」→「通院治療中」の2003.11.2に書いているように、同じ状況に置かれてもそれをプラスと見るか、マイナスと見るかにより免疫力がプラスにもマイナスにもなることが実証されています。従いまして、普通だったらイヤだなと感じることも自分にとってはプラスなんだ、と思えるようになれば、免疫力が下がらないどころか上がり、大病を患うことなく自然治癒力で健康が維持できるようになるものと思われます。
  普通だったらイヤだなと感じることも自分にとってはプラスなんだ、と思えるようになるにはどうしたら良いでしょうか? 「闘病記」→「通院治療中」の2003.10.29に書いているように「中村天風」も結核を患い、病気に打ち克つ方法を求めて欧米を彷徨し、「病気を忘れると治る」と言われたものの「どうしたら忘れられるか」については誰も教えてくれませんでした。失意の中での帰国の途中にヨガの聖者カリアッパ師と出会い、ヒマラヤの秘境で修行するうちに病気を克服するとともに悟りを得て「天風哲学」としてまとめたのでした。「天風哲学」では一貫して心を積極的にすることの重要性を説いており、また具体的な方法として
 ・プラスの自己暗示で潜在意識を積極的にする方法(=観念要素の更改法)
 ・実在意識に働きかけてプラスの思考回路づくりを行なう方法(=積極精神養成法)
 ・外界の刺激から身を守り心を乱されない方法 (=クンバハカ法)
を奨励しています。(池田光著「中村天風 自分に『奇跡』を起こせ」三笠書房)
 心を積極的に維持することで、病から開放されるだけでなく、運命がひらけ、成功と願いの成就がもたらされるとしています。
 身近なところでは自分の口から否定的な言葉を一切出さないようにすることを中村天風は実践していたようで、試合で自分が負けても「相手が勝った」と言っていたそうです。自分もまずここから始めようと思い、自分の吐く言葉に注意をはらってみると、子供への注意をはじめ、政治への批判などいかに否定的なことを一日中話しているかがよくわかりました。
 心を積極的にし、これからの人生を輝かしく歩もうではありませんか。

9.2003.11.15 「肉体の自然治癒力と霊的治癒力」

 マルコによる福音書第2章にイエス・キリストが中風で寝たきりの人を瞬時に癒す奇跡の話があります。このような奇跡的治癒は本当に起こりえるでしょうか?
 これに類する経験が私自身にあります。長女が生まれた直後に産婦人科の医師が私を呼び出し、看護師とともに「お子さんは足がこのような状態です。明日かならず整形外科の医師の診察を受けてください」と言って、生まれたばかりの長女の足を動かして見せました。長女の足は、伸ばした状態を180度とすれば、さらに180度以上の角度でカックンと曲がりました。私は「生まれたばかりの子供が生まれた直後から、かような障害を背負って生きていかねばならないのか」、と思い不憫で涙が止まりませんでした。「一生もし治らずよき理解者も現れなかったなら、親として一生守ってやらねばならない」と心を決めました。それまでに読んだいろいろな自己啓発書に、「強く念じたりイメージしたことは必ず実現する」と書かれていたことや、「写経の功徳」という本を読んでいたことから、ワラにもすがる思いで、般若心経を写経しながら、長女の足が元通りになっているイメージを強く念じました。一文字書くごとに強く念じましたので、写経を終えるのに確か4〜5時間ぐらいかかったように思います。よく仏壇にもお祈りしました。翌日、整形外科に長女を連れていったところ、「どこも何もおかしなところはない」と言われ、足も180度以上曲がることはなく正常な状態でした。産婦人科の医師も看護師も狐につままれたような顔で「おかしいなあ、昨日は確かに変だったのに」と言っていました。
 かような経験から、病いや障害を癒すことは、イエス・キリストのような霊格の高い人にとっては奇跡でも何でもないのかも知れません。私たちのような凡人でも、正しく強力に念ずれば病いや障害を癒すことができるのかも知れません。
 エドガー・ケイシーは催眠状態に入ると、潜在意識とも言うべきものが、医者も見離した難病患者に対する医療診断や治療法を指示しました。実際その治療法を実践することで難病が確実に治癒しました。このような実例が数千とあり、記録に残されています。病気の治癒以外にも輪廻転生のことや過去生のこと、オーラのことなど多様な質問に対する回答が記録され分析されています。内容はかなり科学的に検証され、実際に正しいことが着々と証明されています。
  治癒と心の働きについてエドガー・ケイシーの潜在意識はこのように語っています。(以下、エドガー・ケイシー著「わが信ずること」たま出版 より)「・・・身体上のあらゆる病気の治癒力、回復力というものは、自らの内なる神性からくるものであるということである。それは建設的な力を助長し神性を守ることによって、肉体上のマイナスを除去する意識である。・・・」 (潜在意識でない)エドガー・ケイシー自身も「・・・内からみても外からみても、病は神性がいやすのだという意識に達するまで、心が目覚めるようにならなければなりません。・・・もし人が、十分に内部から目覚めることができるなら、すべての薬も医療機械も治療も意味がなくなります。・・・しかし、われわれの心が地球にしばられ、心の向きをそのように変え、個人の潜在意識をそのように訓練してしまうと、それらの狭い意識の壁を超えることができなくなりますが、そのときは神御自身の貯蔵庫にあるいろいろなものの何か一つによって目覚めさせることが必要であります。」と語っています。
 すなわち、心が内なる神性でなく肉体にとらわれているかぎりは、病気からの治癒には薬や医療機械による治療の助けが必要となるが、十分に内なる神性に目覚めることができれば病とは無縁となると言っています。
 これと同様のことが、シルバーバーチ関連の書物にも書かれています。「シルバー・バーチ」とは英国のハンネン・スワッハー・ホームサークルという家庭交霊会において、1920年代後半から50年余りにわたって教訓を語りつづけてきた高級霊のことです。交霊会というと、何かうさんくさそうな印象があり、私自身も最初は疑念を持ちつつ読んでいましたが、内容の崇高さ、愛情に満ちた言葉、50年余りにわたる内容がどの時期をとっても首尾一貫した内容でまったく矛盾がないこと、人生に関する良く分からない点が明確かつ論理的、合理的に説明されていることから、内容の確かさを確信させられるものです。「シルバー・バーチの霊訓」(潮文社)は私の愛読書となっており、人生に疲れを感じたときに読んでは元気づけられています。
 A.W.オースティン編「シルバー・バーチの霊訓(五)」 (潮文社)には、病気の治癒について以下のように書かれています。
(問)「・・・病気は自分で治せるのでしょうか。」
(答)「治せるだけでなく、げんに治しております。魂の優位を主張し、肉体という下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでもできることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。肉体は精神の従僕です。精神は肉体に隷属しているのではありません。・・・」
(問)「ということは誰でも自分で健康を回復できるということでしょうか。」
(答)「まさにその通りです。ただしそのためには”自分は神である。無限の創造活動の一部を担う存在である。全生命への責任を担う霊的存在である。本来は完全なる霊なのだ”と宣言できる段階まで悟りができなくてはなりません」
 また近藤千雄編「古代霊は語る シルバー・バーチ霊訓より」(潮文社)には、以下のように書かれています。
「肉体にも自然治癒力というのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治るように、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も具わっており、その法則を理解しそれに従順に生きておれば、病気は自然に治るはずのものなのです。健康とは肉体と精神と霊が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病いという結果が生じます。・・・身体の病気が治癒することよりも、その治療がキッカケとなって真の自我に目覚めることの方がはるかに大切なのです。」
「肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。」とも言っています。
  この言葉は「中村天風」が心を積極的に維持することで病から開放される、と言っている事とも通じます。
  また宗教法人「生長の家」の聖経「甘露の法雨」にも「想念(こころ)を変うることによってよく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。」とあり、同様のことが書かれています。また「如何なる健康なる力士も彼が肉体を実在と観、肉体即ち彼なりと観る以上は彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。・・・肉体の奥に、霊妙きわまりなく完全なる存在あり。これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、常住健康永遠不滅なる『生命』なり。汝ら今こそ物質を超越して汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。」とあります。後者はエドガー・ケイシーが、心が肉体にとらわれることなく、十分に内なる神性に目覚めることができれば病とは無縁となる、と言っていることと通じます。
 以上のことから、「肉体が主ではなく、魂(霊)や精神が肉体を支配している、また自分は神の一部であり完全なる霊的存在である、完全なる霊であるがゆえに本来その従僕である肉体もそれを反映して完全である」という真理を悟ることにより、病気も自然に治り健康も維持されるものと思われます。

10.2003.11.17 「内在の力と祈り、瞑想」

 A.W.オースティン編「シルバー・バーチ霊言集」(潮文社)には以下のような問答があります。
(問)「その潜在力(魂の潜在力)とは、何をさしているのですか。」
(答)「内在の神、大我のことである。これについては何度も前に言った通り、人が内在の力をよく理解して使うことができれば、彼に不可能なことはないのである。ではどうしたらその力に近づけるかといえば、これの開発修行をつむこと、高い波長にふれること、奉仕の生活を送ること、霊魂の向上をはかること、これである。人が唯物的になればなる程、その波長は低くなり、自己を捨てて向上をはかればはかる程、その波長は高くなり、内在の神性はますます発揮されるのである。」
 ここで言う「内在の神」「内在の神性」はエドガー・ケイシーの言う「内なる神性」と同様のものであると思われます。
 霊魂が大きく向上すれば、イエス・キリストのように霊的治癒力も自在に発揮できるものと思われますが、これには近道はないと考えられます。ダイヤモンドの原石を磨くがごとく時間をかけて多くの経験や行為を通して磨いていくしか無いでしょう。
 内在の力に近づくために「開発修行をつむ」とありますが、人が内在の力をよく理解してその使い方を学ぶ方法はあるように思われます。実際ヨガの達人は自然界の法則では説明がつかないようなことも、修行により可能にしています。ヨガの奥義に「クンダリニーの覚醒」があります。「クンダリニー」とは誰もが持っているとされている生命エネルギーで通常は眠った状態にありますが、これを覚醒させることができれば、超常的な能力と無限の智慧を自在に操ることができるとされています。ただしこの覚醒は非常な危険を伴い、発狂したり最悪の場合は死に至る場合もあるようです。いずれにせよ、霊的、精神的向上を伴わない能力開発は、その能力を正しく善なる目的に使いこなせない可能性が高く、この点からも危険であると言えましょう。
 それでは「祈り」や「瞑想」の励行は「開発修行をつむ」ことと関係があるでしょうか? H.S.ホームサークル編「シルバー・バーチの霊訓(三)」(潮文社)にはこのように書かれています。
(問)「霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか。」
(答)「祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり決り文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。・・・あなた方を悩ますすべての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時・・・その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。・・・さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。・・・」
 すなわち、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りは叶えられるということのようです。宇宙の霊的生命の一部が私たちの内なる神性でもあり、真の自我でもあり、自身の『生命』の実相でもあるわけですから、この類の祈りは内在の力の理解を進め、開発修行をつむことにも通じるところがあるものと思われます。
 また、H.S.ホームサークル編「シルバー・バーチの霊訓(三)」(潮文社)には以下のように書かれています。
(問)「精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ることは健康の維持に役立つでしょうか。」
(答)「自然法則と調和した生活を送り、精神と身体との関係を乱すような(摂理に違反した)行為をしなければ、すべての病気に効果があるでしょう。・・・内部に秘められた”健康の泉”の活用法を知れば、すべての病気を駆逐することができることは確かです。・・・」
(問)「心の静寂が得られると肉体器官にどういう影響が現れるのでしょうか。」
(答)「それ本来の有るべき姿、つまり王たる霊の支配下に置かれます。すると全身に行きわたっている精神がその入り組んだ身体機能をコントロールします。・・・霊はその時のあなたの身体の構成要素のあらゆる分子に対して優位を占めています。それができるようになれば完全な調和状態−あらゆる部分が他と調和し、あらゆるリズムが整い、あなたは真の自我と一体となります。・・・」
 ここでの「精神統一によって心の静寂、内的生命との調和を得ること」とは「瞑想」の行為に相当すると考えられます。
 また、「祈り」について以下のように述べています。
「・・・祈りとは魂の行(ぎょう)です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です。ですから、真の祈りとは魂が生気を取り戻し、力を増幅するための手段、言い換えれば、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であると言えます。それによって神の意志との調和が深められるべきものです。自己を内観することによってそこに神の認識を誤らせている不完全さと欠陥を見出し、それを是正して少しでも完全に近づき、神性を宿す存在により相応しい生き方をしようと決意を新たにするための行為です。」
 以上のことから、「祈り」や「瞑想」により「心の静寂、内的生命との調和を得る」行為は、身体を霊や精神の支配下に置きコントロールし調和状態に置くとともに、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取し、神の意志との調和が深められることになります。
 なお、「瞑想」を行なう場合には、先達の指導を受けた方が良いと思われます。静寂の中で神への同調を図るに至るまでに、特に否定的な感情や雰囲気は、波長の低い地縛霊や浮遊霊などと同調し、それらによる幻視などに惑わされたり、憑依されたりする場合が有り得るからです。初心者の方は「祈り」により「内的生命との調和」を図ることをおすすめします。

11.2004.3.31 「病気の起こるメカニズムとその克服」

 このページの9.および10.でも
簡潔に説明していますが、M・マクドナルド・ベイン著「解脱の真理」(霞ヶ関書房)に、より詳しく病気のメカニズムやその克服について書かれているので紹介します。交霊会で聖アントニーは治病について以下のように語ります。
 「さて、病気がたいていはある原因の結果であり、自然の法則をないがしろにしたためであることは諸君も良く知っていることであり、それは、無智、恐怖、愛の欠如すなわち愛を与える力の欠如、常に愛を求めてやまない小我に対する理解の欠如等から出てくるのである。病は、肉体と心とがその本来のリズムを失ってしまっていることを現す兆候であり、同時にまた、本来のリズムを取り戻そうとする苦闘が病である。言い換えれば、もし君が自然の法則をないがしろにし、同時に『安らぎを失って』苦闘し続けるならば、心の注意は症状に集中されるようになる。 ・・・・ 心は肉体の感じを意識し、この感じがある病気として心に記録され、それに病名がつくと心はその病名に捉われ、それが不治の病ということにでもなると心はそれを鵜呑みにしてしまい、かくして重荷を一層ふやしてしまう。しかし実はその原因が自分の実相(神我)に関する無智と自然の法則の無視とに因由することを悟って始めて重荷はおり大生命たる大霊が心を変性し、かくして肉体は自然の完全なる働きに応ずるようになるのである。」 (中略)
 「・・・ 肉体の細胞間にある分裂があるとそれが脳の中枢に伝えられる。すると心の中の現在意識がそれを不健康ということにしてしまう。 もともと大霊(実相)の完全なる力を悟っていないので、そこへ恐怖や不安が入り込んでしまうのである。しかし実相の真理を心が受け容れると脳中枢にそれが伝わり、かくして肉体細胞の再建が始まる。しかし心が何とかしようとする苦闘の虜になってしまうと第一防衛線、すなわち聖なる理性を用いることができなくなり、結局肉体細胞の不調というしらせを最後の宣告と思いこんでしまう。しかし、自分の実相に関する真理を悟れば本当の治癒が起る。心がこの真理によっていわば強く充電されると、完全にして瞬間的な変貌が起る。・・・」 (中略)
 「実は病気の場合何が起るのかというと、自分の実相に関する真理(絶対、完全円満な真我)についての自覚が心から姿を消し、不健康意識が心を支配してしまい、快活さが失われ、活力感がなくなってしまったのである。ではこれまで肉体を支えてきた心にはいかなる運命がふりかかってきたのだろうか。病が実在するという迷いの魔力のもとにひれ伏してしまい心から真理が一時的に去ってしまい、心が大霊(実相神我)の宗主権(統治・支配する権力)に関するその知識を不調・混乱という勢力に明け渡してしまったのである。」  (中略)
 「・・・ 病気の虜になるのは自我なのである。病気というものを知っているのは自我だけなのである。神霊は病気なるものについては何らの知る処もないのである。利己的、取り込み一方、貪欲、憎しみ、敵対、不寛容、乱暴なのは自我であり、これこそが大方の病の原因である。
 非人格的、不偏の大霊はこれらの不徳について何ら知ることはない。従って不偏、非人格的であることが神癒なのである。非人格的になればなる程君は愛深く親切となる。なぜならば、非人格的なるものが愛であり、愛こそは癒しであるからである。愛は神であり、神は愛であり、且およそ反作用を伴わざるあらゆる完全なる作用の基盤である。 
 個我が外なるもの、争い、内外の戦いに常に捉われていることが解れば、その時こそ君は苦悩の原因を把握したことになる。そしてそのことを把握した時、非人格的内なる吾が解脱し、かくて大生命のもろもろの力という放射能が放射され、もろもろの自然力というこれらの電磁力が心と肉体とを変質し始める。
 この内なる原子作用が潜在意識機構に対して強烈なる暗示を生み出す。するとこの潜在意識機構は瞬間的に全心身にわたり隈なく行動を開始して、強力なエネルギーの流れを正しい方向に移動させ、その向かうところの全てのものを内から外へ掃き出し、そこにあった混乱を鎮める。
 この混乱がおさまるのに応じて病気という観念を放ち棄てねばならない。そうすることによって平安が確立された時、肉体の訴えが止み、かくして調和が確立されるのである。
 かく学びかく知ることによって再び調和が確立されると、心と肉体とは、病の性質や慢性状態の継続期間のいかんによらず、変性する。
 真理による指導によって、患者は苦悩が一時的であり人工のものであること、およびなんであれ一時的なものはすべて流動しそれ自身の根拠など何ら持ち合わせていないこと、を悟り始める。外なるものに捉われるのは無智なる自我である。実在(実相神我)こそ完全無欠の非人格的吾なのである。・・・ 」  

  以上の言葉は、先の9.「肉体の自然治癒力と霊的治癒」の末尾で書いている「『肉体が主ではなく、魂(霊)や精神が肉体を支配している、また自分は神の一部であり完全なる霊的存在である、完全なる霊であるがゆえに本来その従僕である肉体もそれを反映して完全である』という真理を悟ることにより、病気も自然に治り健康も維持される」ということに全く矛盾せず、より具体的な解説となっていることがおわかりいただけることと思います。 かような実相を悟ることにより不治とされた病が治癒した事例については、谷口雅春著「生命の実相」(日本教文社)にも数多く掲載されています。(ちなみに私自身は宗教団体「生長の家」とは何ら関係しておりませんが、「生命の実相」には多くの真理が語られていると思っています)

▲一番上へ