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中学校音楽の教科書的な「交響曲第5番ハ短調 作品67」


 40年ほど前、私が中学生の頃は「田園交響曲」が鑑賞教材になっていたが、今は第5番になっている。それは理解できる。5楽章もあり描写性の強いあの曲より、一般の交響曲の形式に準じた4楽章のハ短調のほうが適していると思うからだ。しかし、ハ短調とて当時では型破りな曲であったことに違いはない。さまざまな実例を知った上での「ハ短調」ならともかく、予備知識ゼロの中学生に「ハ短調」では、鑑賞になっても教育にならない。しかし教科書には、あろうことか、ご丁寧にソナタ形式の解説まで載っている。こんな教科書では「大きなお世話」的なテスト問題を書く先生がいそうで恐い。ぜひ、鑑賞のみにしてもらいたいものだ。

 ここでは、まず、教科書(今回は、廣済堂あかつき社版)に記載されている説明について、いくつか補足したい。

■第3楽章と第4楽章は切れ目なしで演奏される。

 なぜ「切れ目なし」に言及しているかというと、当時の音楽では交響曲に限らずほとんどの曲で「切れ目ありが普通」だからだ。切れ目があると、前後の楽章はどんな違いがあってもよい。しかし、切れ目が無いことはつまり、性格の異なる2つの楽章のつなぎ方に格段の注意や工夫が必要になる。それに続く音楽が効果的に演奏されるようにつなぐしかないのだ。
 第4楽章の冒頭を雄大な音楽にできたのは、効果的なつなぎ目ができたからである。
 こういうことは、切れ目のある交響曲をいくつも聴かないとわからないことだ。

■ソナタ形式は、提示部・展開部・再現部・終結部(コーダ)の4つの部分から構成される。

 さらりと読むと、なんだか4つの部分が均等な大きさ、均等な役割を持っているかのように見えるが、実はそうではない。ベートーヴェン以前の曲を聴くと、終結部が小さいものがほとんどだろう。つまり、「ソナタ形式は、提示部・展開部・再現部の3つの部分から構成される」。
 また、展開部は比較的長めに作る人もいれば、短めに作る人もいる。だいたい、ソナタ形式の初期は、展開部はただの短い「つなぎ目」でしかなかったのだ。教科書のこの説明のように「4つの部分」と書きたくなる曲は、ベートーヴェン以後の音楽である。このあたりを間違えてはいけない。
 こういうことは、交響曲第5番作曲以前の曲をいくつも聴かないとわからないことだ。

■「運命はこのように戸をたたいてやってくる」の件

 ウソ・でっちあげ・捏造(全部同じか)の多いシントラーによる言い伝えである。シントラーのみが言及している言い伝えなので、かなりウソに近い言い伝えと言える。さらに輪をかけて話を難しくしているのは、ベートーヴェンがシントラーにウソ(冗談とも言う)を言ってしまう傾向にあることである。たとえば…

 「最後のピアノ・ソナタがたった2つの楽章しかないのはなぜでしょうか」
 「3つめの楽章を作っているヒマが無かったからだ」

 本当にヒマが無かったということで納得するなら本当のバカなのだが、シントラーはなんだか違うなと思っていたようだ。しかし、曲の本質を追求することは無かった。

あるいは

 「この曲が表現しているのは何でしょうか」
 「シェークスピアのテンペストを読め」

 シントラーは先生に曲の特徴が意味するところを尋ねているのであるが、ベートーヴェンは、どうも「音楽がわからんくせにしつこく聞いてくる奴には謎かけをしてはぐらかすしかない」とでも思っているかのようだ。たしかに、
 「曲の完成」とはすなわち「楽譜に全てを書ききった!」ことであり、「楽譜に全て書かれているから余分な説明は一切いらない」
はずなのだから、もし「この曲の意味することは何でしょうか?」と尋ねようものなら、
 「おまえはこの音楽をちゃんと聴いたのか?」
と言われても仕方が無いのである。
 これが「絶対音楽」という種類の曲である。これに対応する形で「標題音楽」を定義するなら、それはまさに交響曲第6番「田園」であって、各楽章に標題(解説)があるのだ。

 以上から「運命」という標題がほとんど日本でしか使われないということについて思索にふけることができるが、これは中学生の領分からは逸脱している。

■(第1楽章の)第1主題と第2主題の表情や性格の違い

 教科書には書かれていないが、第1主題はハ短調、第2主題は変ホ長調だ。第1主題は8分音符主体であるが、第2主題は4分音符主体だ。第1主題がスラーが無いが、第2主題はスラーでまとめられている。第1主題は和声を伴わないが、第2主題は和声を伴っている。
 「第1主題と第2主題の表情や性格の違い」は以上の4点にまとめられるが、中学生には難しいことであろう。

■第4楽章の冒頭の主題に「運命の動機」が隠れている件

 楽譜による解説で、6、7小節に「運命の動機」が聴けると書かれてあるが、それはこじつけ以外の何物でもない。
sym5-4_textbook.jpg (19488 バイト)

■その他、思うところを書いてみる。

第2楽章
 交響曲などでは、第2楽章といえばゆっくりした音楽のことだ。しかし、日本人は「ゆっくり」という言葉から、穏やかな落ち着いたイメージを思い浮かべるのではないだろうか。穏やかな落ち着いた曲だというなら、静かで美しい音楽を想像する人もいるかもしれない。私もそうだった。そういうことならモーツァルトの曲はまさにその通りの曲だったし、ベートーヴェンでいえば、交響曲第4番の第2楽章など良い例だろうか。
 しかし、古典派当時の作曲家たちは、どうもそんなことはお構いなしだったようだ。
 交響曲第5番の第2楽章は、冒頭は落ち着きを見せているが、途中で演説を始めてしまうくらいなのだ。

第3楽章
 この第3楽章というのが実はクセモノである。
 古典派前期の交響曲では、全4楽章構成における第3楽章が無い、つまり3楽章構成の曲も多かった。地域で違いがあったのだ。ウィーンあたりではメヌエットを3番目とした全4楽章が主流だった。だから、ハイドンもモーツァルトも全4楽章の交響曲が多いはずだ。しかし、同種の楽章構成を持つピアノ・ソナタなどでは、ウィーン在住の作曲家であっても3楽章構成の曲が多い。ベートーヴェンでいえば「月光」「悲愴」「熱情」がそうだ。
 あっても無くてもよい、というだけでもクセモノなのに、原則は3拍子の舞曲でメヌエットだ、というのもこれまたクセモノである。踊りの曲と言われると、これもイメージが固定してしまう。ましてやワルツかフォークダンスくらいしか思いつかない私にはなおさらであろうか。
 ワルツだけが3拍子ではないのは当然なのだが、内容に制限が加わるのを嫌ったであろうベートーヴェンは、メヌエットをやめてスケルツォにした。スケルツォと書くと、別の何かにただ置き換わっただけのように感じるだろう。実際は「何でもアリ」にした、と同じ意味である。スケルツォは早くも「第9」で3拍子を抜け出した。

第4楽章
 水泳の競技で、4人で競うメドレー・リレーは最後が「自由型」になっている。「自由型」だから平泳ぎでも良いのだが、それでは負けてしまうので、クロールになるという落ちである。
 交響曲でも第4楽章は実は「自由型」だ。
 したがって、ロンド形式にする人もいれば、変奏曲にする人もいる。もちろんソナタ形式でもよいし、他の何でもよい。第4楽章が「自由型」だと割り切ったなら、残念ながら作曲できずに「あの曲で代用してくれ」と言い遺した作曲家がいても、文句は言わないであげよう。
 そうそう、平泳ぎは2人めのはずだが、ゆっくりとした楽章が2番目であることが交響曲では通例なので、メドレー・リレーは交響曲を真似たのだろうか。



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