中学校音楽の教科書的な「交響曲第5番ハ短調 作品67」
40年ほど前、私が中学生の頃は「田園交響曲」が鑑賞教材になっていたが、今は第5番になっている。それは理解できる。5楽章もあり描写性の強いあの曲より、一般の交響曲の形式に準じた4楽章のハ短調のほうが適していると思うからだ。しかし、ハ短調とて当時では型破りな曲であったことに違いはない。さまざまな実例を知った上での「ハ短調」ならともかく、予備知識ゼロの中学生に「ハ短調」では、鑑賞になっても教育にならない。しかし教科書には、あろうことか、ご丁寧にソナタ形式の解説まで載っている。こんな教科書では「大きなお世話」的なテスト問題を書く先生がいそうで恐い。ぜひ、鑑賞のみにしてもらいたいものだ。
まずは、各楽章の簡単な説明を書いておきたい。
■第1楽章
序奏の無いソナタ形式。序奏があるか無いかは、作曲者によって違いがある。たとえばモーツァルトでは序奏が無い交響曲が比較的多い。一方、ハイドンでは序奏がある交響曲が比較的多い。ベートーヴェンでは、9曲のうち、1,2,3,4,7番が序奏あり、になっている。
■第2楽章
ゆったりとした感じの楽章。形式はさまざまなものが使用される。ベートーヴェンの交響曲第5番では、変奏曲をもとにした音楽になっているが、ロンド形式を参考にしていると言えなくもない。
■第3楽章
ベートーヴェンの時代までは、メヌエットという3拍子の舞曲風な音楽にするのが定番だった。屈託のない音楽であることが多い。ベートーヴェンではどうかというと、スケルツォが用意されることが多いが、楽譜としては特に何も記されていない場合がある。ベートーヴェンの交響曲第5番でも、楽譜には特に記載されていないが、スケルツォであるとみなされる。
■第4楽章
この楽章も、実際としては、さまざまな形式が使用される。ベートーヴェンの交響曲第5番では、ソナタ形式になっている。18世紀では、第1楽章と比較すると第4楽章のほうが総じて軽く、また短い傾向にあったが、ベートーヴェン以降は曲の重心が最終楽章に移動する傾向が強くなってきた。つまり、クライマックスを最後のためにとって置かれる傾向になってきたのだ。
次に、お約束とも言える言葉についても説明しておきたい。
■ソナタ形式
ソナタ形式は、当時の交響曲などの組曲(協奏曲、室内楽曲、独奏曲も含む)の先頭の楽章によくある形式である。ちなみにベートーヴェン存命当時、「ソナタ形式」という言葉は無かった。交響曲やソナタを名乗るうえで、絶対に使わなければいけないわけではないが、まずはお約束の形式といえる。
大きく主題提示部、展開部、主題再現部に分かれる。
■メヌエット
3部形式(図式では、A-B-Aなどと示される)の舞曲。図式でいうAの部分が前後にあるが、全く同じことを演奏する場合も、少し変えて演奏する場合もある。Bの部分をトリオという。交響曲としてではなく、実際に踊りの場で伴奏として演奏された頃に、この部分のメロディーを主に3人で演奏した(伴奏は人数に入れない)ことからトリオ(3人で、という意味)と呼ぶ。ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」では、実際に旋律を3人で受け持つ場面がある。
■スケルツォ
3部形式の舞曲。メヌエットが比較的おだやかで上品であることと比較して、スケルツォは快活で俗っぽいと言える。
■変奏曲
ある主題(旋律)を、さまざまに変化させてつないでいく音楽。変化のさせ方については、定番のやり方はあるが実際には自由なので、作曲家の腕の見せ所である。
■ロンド形式
図式では、A-B-A-C-A-B-Aとなる(主な例)。交互に違う旋律が並ぶ形式。
■主題提示部(あるいは、提示部)
主題となる旋律を聴かせる部分。主題は通例では2個。ただし2個である必要はなく、1個でも3個でもよい。互いに調が違うことがお約束である。
■展開部
それまでに出てきた主題をもとに、いろいろ変化させて聴かせる部分。新しい主題を持ち込むことは、かまわない。
■主題再現部(あるいは、再現部)
主題提示部の内容を再現しているかのような部分。実際には、調を変えたり旋律を変化させたりするので、提示部と同じになることは、まず無い。
===それでは、
ここでは、まず、教科書(今回は、廣済堂あかつき社版)に記載されている説明について、いくつか補足したい。
■第3楽章と第4楽章は切れ目なしで演奏される。
なぜ「切れ目なし」に言及しているかというと、当時の音楽では交響曲に限らずほとんどの曲で「切れ目ありが普通」だからだ。切れ目があると、前後の楽章はどんな違いがあってもよい。しかし、切れ目が無いことはつまり、性格の異なる2つの楽章のつなぎ方に格段の注意や工夫が必要になる。それに続く音楽が効果的に演奏されるようにつなぐしかないのだ。
第4楽章の冒頭を雄大な音楽にできたのは、効果的なつなぎ目ができたからである。
こういうことは、切れ目のある本来の姿の交響曲をいくつも聴かないとわからないことだ。
■ソナタ形式は、提示部・展開部・再現部・終結部(コーダ)の4つの部分から構成される。
さらりと読むと、なんだか4つの部分が均等な大きさ、均等な役割を持っているかのように見えるが、実はそうではない。ベートーヴェン以前の曲を聴くと、終結部が小さいものがほとんどだろう。つまり、「ソナタ形式は、提示部・展開部・再現部の3つの部分から構成される」というわけだ。
また、展開部は比較的長めに作る人もいれば、短めに作る人もいる。だいたい、ソナタ形式の初めの頃は、展開部はただの短い「つなぎ目」でしかなかったのだ。教科書のこの説明のように「4つの部分」と書きたくなる曲は、ベートーヴェン以後の音楽である。このあたりを間違えてはいけない。
もちろん、このようなことは、交響曲第5番作曲以前の曲をいくつも聴かないとわからないことだ。
■「運命はこのように戸をたたいてやってくる」の件
ウソ・でっちあげ・捏造(全部同じか)の多いシンドラーによる言い伝えである。会話帳の改竄事件に端を発するシンドラーの不貞の行動は1977年以降、ベートーヴェンの伝記的な面で、そして、曲の逸話や、さらには解釈までも巻き込む事態となっている。そもそも「戸を叩く」「扉を叩く」という表現はシンドラーのみが伝記で言及しているのみなので、他に資料が無く、シンドラーの会話帳捏造事件や無断廃棄事件を考慮すれば、全て嘘と言い切ってよい事態になっていると言える。さらに輪をかけて話を広げているのは、ベートーヴェンがシンドラーにウソ(冗談とも言う)を言ってしまう傾向にあることである。たとえば…
「最後のピアノ・ソナタがたった2つの楽章しかないのはなぜでしょうか」
「3つめの楽章を作っているヒマが無かったからだ」
本当にヒマが無かったということで納得するなら本当のバカなのだが、シンドラーはなんだか違うなと思っていたようだ。しかし、曲の本質を追求することは無かった。
あるいは
「この曲が表現しているのは何でしょうか」
「シェークスピアのテンペストを読め」
シンドラーは先生に曲の特徴が意味するところを尋ねているのであるが、ベートーヴェンは、どうも「音楽がわからんくせにしつこく聞いてくる奴には謎かけをしてはぐらかすしかない」とでも思っているかのようだ。たしかに、
「曲の完成」とはすなわち「楽譜に全てを書ききった!」ことであり、「楽譜に全て書かれているから余分な説明は一切いらない」
はずなのだから、もし「この曲の意味することは何でしょうか?」と尋ねようものなら、
「おまえはこの音楽をちゃんと聴いたのか?」
と言われても仕方が無いのである。
これが「絶対音楽」という種類の曲である。これに対応する形で「標題音楽」を定義するなら、それはまさに交響曲第6番「田園」であって、各楽章に標題(解説)があるのだ。必要と思ったら、ベートーヴェンは必ず何か書いてくれる。「告別ソナタ」もそうであるし、あの弦楽四重奏曲でも「そうであらねばならぬ」と書いている。そもそも、交響曲第5番には、音楽以外には何も書かれていないのだ。
以上から「運命」という標題がほとんど日本でしか使われないということについて思索にふけることができるが、これは中学生の領分からは逸脱している。この主題に関する思索については、「運命からの脱却」「運命からの脱却2!」「運命からの脱却3!」という3つのコラムにまとめた。
■(第1楽章の)第1主題と第2主題の表情や性格の違い
教科書には書かれていないが、第1主題はハ短調、第2主題は変ホ長調だ。第1主題は8分音符主体であるが、第2主題は4分音符主体だ。第1主題がスラーが無いが、第2主題はスラーでまとめられている。第1主題は和声を伴わないが、第2主題は和声を伴っている。
「第1主題と第2主題の表情や性格の違い」は以上の4点にまとめられるが、中学生には難しいことであろう。
■(第1楽章の)第1主題は、楽章の中で使われ方がどのように変化していったのか
出てくる順に示すので簡単に説明したい。
(1)冒頭
弦楽器とクラリネットのみで演奏する。和音を構成する音が無い、つまり、「ソ、ミ♭、ファ、レ」のみでできている。
(2)冒頭からすこし後
ここで音を出していないのは、トランペット、ティンパニ。ここは「ラ、ファ」のみでできている。
(3)提示部が終わっての、展開部の冒頭
ホルンとクラリネットが1小節先行して、その後は弦楽器のみ。音程も違うので、ここから違ったことをやるぞ、という雰囲気がわかる。
(4)再現部の冒頭
トランペットもティンパニも参加して、全員で演奏。よく見ると、フルート1番、オーボエ1番、金管楽器、そして当然ティンパニが「ソ、ミ♭、ファ、レ」になっていない。
(5)再現部が終わっての、終結部(コーダ)の冒頭
譜例で、縦棒に斜め線1本があるのは、8分音符に分解しろという書き方。
ここは再現部の直後、つまり提示部の直後である(3)と場所的にはかなり似通っていてもいいところであるが、全く違うことがわかる。
■第4楽章の冒頭の主題に「運命の動機」が隠れている件
(参考にした教科書の)楽譜による解説で、6、7小節に「運命の動機」が聴けると書かれてあるが、それはこじつけ以外の何物でもない。
ちなみに第4楽章の第1主題は、聴いた感じではどこまで続くかというと、これくらい長い(第1バイオリンのみ掲げる)。
これでひと区切りだ。ここの終わりは「ド」になっている。
この次に何が続くのかというと、実はまだ第2主題ではないのだが、第1主題の終わりの「ド」そのものから始まるホルンなどによる雄たけびのような旋律だ。つまり、第1主題の気分そのままにまだまだ延々と続いているのだ。
第2主題は、ここから(赤矢印)。
ちょっと戻って、この楽章の第1主題をもう一度見てほしい。それはff(フォルティッシモ)で始まるのだが、そのffが終わるのはどこかというと、第2主題の(譜例の1段め)のpになるところである。延々45小節、ffのままというわけで、これは第4楽章の全長の10%を超えている。エネルギーに満ち溢れた音楽と言える。
■その他、思うところを書いてみる。
第1楽章
再現部にあるオーボエのカデンツについて。
これは、提示部の同等のところがバイオリンのみによるフェルマータであった箇所を工夫してみたところ。たしかに面白いかもしれないが、ここにこだわると本質を見失うので、感想文などではさらりと流すのがよい。
第2楽章
交響曲などでは、第2楽章といえばゆっくりした音楽のことだ。しかし、日本人は「ゆっくり」という言葉から、穏やかな落ち着いたイメージを思い浮かべるのではないだろうか。穏やかな落ち着いた曲だというなら、静かで美しい音楽を想像する人もいるかもしれない。私もそうだった。そういうことならモーツァルトの曲はまさにその通りの曲だったし、ベートーヴェンでいえば、交響曲第4番の第2楽章など良い例だろうか。
しかし、古典派当時の作曲家たちは、どうもそんなことはお構いなしだったようだ。
交響曲第5番の第2楽章は、冒頭は落ち着きを見せているが、途中で演説を始めてしまうくらいなのだ。
第3楽章
この第3楽章というのが実はクセモノである。
古典派前期の交響曲では、全4楽章構成における第3楽章が無い、つまり3楽章構成の曲も多かった。地域で違いがあったのだ。ウィーンあたりではメヌエットを3番目とした全4楽章が主流だった。だから、ハイドンもモーツァルトも全4楽章の交響曲が多いはずだ。しかし、同種の楽章構成を持つピアノ・ソナタなどでは、ウィーン在住の作曲家であっても3楽章構成の曲が多い。ベートーヴェンでいえば「月光」「悲愴」「熱情」がそうだ。
当時では、あっても無くてもよい、というだけでもクセモノなのに、原則は3拍子の舞曲でメヌエットだ、というのもこれまたクセモノである。踊りの曲と言われると、これもイメージが固定してしまう。ましてやワルツかフォークダンスくらいしか思いつかない私にはなおさらであろうか。
ワルツだけが3拍子ではないのは当然なのだが、内容に制限が加わるのを嫌ったであろうベートーヴェンは、メヌエットをやめてスケルツォにした。スケルツォと書くと、別の何かにただ置き換わっただけのように感じるだろう。実際は「何でもアリ」にした、と同じ意味である。交響曲第5番の楽譜において、第3楽章はただ単に
Allegro (アレグロ)と記載されているのみである。スケルツォとは書かれていない。そして交響曲第9番では、スケルツォは早くも3拍子を抜け出した。
この楽章についてのコラムは「交響曲第5番の第3楽章の話」がある。
第4楽章
水泳の競技で、4人で競うメドレー・リレーは最後が「自由型」になっている。「自由型」だから平泳ぎでも良いのだが、それでは負けてしまうので、クロールになるという落ちである。
交響曲でも第4楽章は実は「自由型」だ。
したがって、ロンド形式にする人もいれば、変奏曲にする人もいる。もちろんソナタ形式でもよいし、他の何でもよい。第4楽章が「自由型」だと割り切ったなら、残念ながら作曲できずに「あの曲で代用してくれ」と言い遺した作曲家がいても、文句は言わないであげよう。
そうそう、平泳ぎは2人めのはずだが、ゆっくりとした楽章が2番目であることが交響曲では通例なので、メドレー・リレーは交響曲を真似たのだろうか。
【続き】
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