備えあっても‥・
この、HPは「春夏秋冬」の付録です。 本誌も是非ご覧下さい。http://park10.wakwak.com/~photo/pindex.htm
このコーナーは地震の被害を減らす事が出来ればとの思いから作成しました。近年の国内地震で最大級は元禄地震です(2005年10月現在)。 2004年頃から千葉県内、特に九十九里浜を中心に調べ始めました。 地震の被害を防ぐ事は出来ませんが減少させる事はある程度可能です。自分の身は自分で守る。 元禄地震、関東地震、安政江戸地震等の歴史地震、兵庫県南部地震、中越地震等をお手本に、今後やってくるであろう大地震の対策を考えたいと思います。 地震発生直後は道路が寸断して救急車も、自治体の救援も期待できません。 最低3日間は自力で生き延びなくてはなりません。3日分の食料と水を確保しておきましょう。
2013年5月28日、政府の中央防災会議の作業部会(主査・河田恵昭(よしあき)関西大教授)は28日、マグニチュード9級の「南海トラフ巨大地震」対策の最終報告書を公表しました。その内容によりますと従来非常食の備蓄は3日間として来ましたが南海トラフ対策を勘案すると1週間の備蓄が必要と勧告しています。


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 120.あれから4年2015.3.10
 2011年3月11日は金曜日でした。9日に亡くなった叔母の通夜のため出かける支度をしていました。テレビでは国会中継が放送され、菅総理大臣の予算委員会での答弁の模様が写しだされていました。居間のサッシ窓がコトコトと鳴り出していましたが、何の音かわからずにTVを見ながら服装を整えコーヒーを飲んでいました。後で思うにこれはP波だっのです。10秒ほどすると突然横揺れが襲い停電になりました。横揺れがS波です。 この揺れこそが東関東大震災です。 通夜には行ったものの、従妹と待ち合わせたのですが電車が止まり連絡ができないまま車で出かけましたが、1時間ほどで着くはずの行程は3倍の時間を要しました。各、交差点の信号が停電でのろのろ運転を強いられたためです。
 私の住む市では4年経つのに目に見えた対策が皆無です。何かしているのでしょうが市民に届いていないのです。見える対策より大事な何かがあるのでしょう。そう思いたいのです。近隣の市ではハザードマップ(津波や液状化など)がつくられていますが...。 たぶん期待するほうがダメなのかも。私たちが立ち上がらなければ、この未曾有の災害も風化してしまいます。 冒頭の停電でも交通信号は確保できるとか、何でも良いと思います。何か探し始めましょう。

 119.館山市の重要文化財2014.3.17
2月26日付で千葉県館山市のサイカチの木(マメ科)が重要文化財に指定されたとの新聞記事を見て3月15日に見に行きました。重要文化財にするための運動は知っていましたが現物はまだ見てはいませんでしたので良い機会だと思い出掛けた次第です。館山市の住宅街の路地にその木はありました。軽自動車がすれ違うのに苦労する路地で、伐採は考えなかったのでしょうか。 こうした長寿の樹木は幹の内部が空洞化しているものが多いもので台風や季節風などで倒壊することが多く危険です。路地等の人の通行の多い場所では伐採するのが良いのですが館山市は何か勘違いをしているのでしょう。

【追記】
令和元年の台風15号(2019.9.9)において倒壊しました。けが人はありませんでした。

 118.溺鬼供養塔2014.2.2
 大網白里に所要ができ市制施行後初めて行ってみましたが何の変化もありませんでした。町の頃と何ら変わりがありませんでした。帰りに九十九里町の溺鬼供養塔に廻りました。大網白里の白里が九十九里の掛詞を思い出したからです。百から一画とると白となり100から1とると99になる事から白里が99里という故事にちなんだ地名です。写真上部に説明板を張りつけましたので1703年からだいぶ経ってからの建立だったようです。この頃が豊漁期で財政的余裕がきっかけでした。
貞観地震をはじめとして豊漁期と地震は重なる事が多く偶然でしょうか。
最近もこの辺りは豊漁です。元禄の頃を彷彿とさせられます。
溺鬼供養塔の鬼とは死者のことです。つまり溺死者を供養したものです。津波の威力はとてつもないものです。この場所は汀線から400m位でしょうか。おそらくひとたまりもなく海に連れ去られたことでしょう。豊漁期が続いたため、納屋と呼ばれる海岸近くの小屋に寝泊まりした人が多く被害が拡大したのです。

 117.富士の高嶺に降る雪も2013.12.5
 昔、松の木小唄というのが流行った。中学生の頃でしたか..歌っていると母に叱られた覚えがあります。〆は融けて流れりゃ皆同じというものです。
 今、富士山の噴火を考えれば皆一様に関心を示してくれますが一頃は観光の妨害になるとか必ず一悶着あったものです。ところが現在ではその観光地の地元で富士山噴火ハザードマップが示され関心の高さが伺えます。 小欄でもハザードマップについて何度か記しておりますがなかなか予測が困難です。噴火が近づけば何らかの予兆はあるでしょうが現在の余地技術がどの程度なのか全く見当がつきません。突然の噴火は想定されるのかさえ分からないといいます。そうした時にはどうすれば良いのか。
 伊豆大島の噴火の際は全島避難で島民が引き上げてくるなか、私は通信設備の維持のため島に渡った経験がありますがそれはとても不安でした。自衛隊の船が千葉県の館山から出るので3時間で行ってくれと言われ車で駆けつけたのを覚えています。島に近づくにつれ噴煙が大きくなり比例するように不安が拡がりました。
 今、富士の高嶺に噴煙が見えたら...。早めの指示と日頃の訓練が必要です。繰り返しの訓練がパニックを防ぎます。 とは言うものの観光客の帰宅の足の確保は間に合うのでしょうか。 無理に帰らず其処に留まるとしたらホテルの確保は可能でしょうか。 呑気に、融けて流れりゃ...などと言っていないでしょうね。

富士河口湖町(旧上九一色村富士嶺地区)

 116.賽の河原2013.6.10
 無限地獄の悲惨さはいつか見た映画の1シーンを思い出します。賽の河原で石を積み始めると鬼がやってきて崩してしまいます。何度も何度も同じことの繰り返しで永遠に完結しません。 目的は立場によって変わってしまいます。石を積むのが目的ならば石を積むことを終わらせるための方策を考えて石を崩す行為のインターセプトを考えればよいのです。石を崩すのが目的ならば崩した時点で当面の目標は達成したことになります。 とすれば賽の河原の目的は石を積むことです。石を崩すインターセプトはここでは考えていないか考えられないということです。少々回りくどくなりましたが地震の発生と地震の防止に似ています。地震の発生は防ぐことはできませんし、地震の被害はなくすことができません。「因果応報」とはこのようなことではないでしょうか。写真は河口湖の水位が低下し、六角堂まで徒歩で行けるようになってしまった賽の河原ような湖底の風景です。 地震の被害を少なくするには常日頃の用心を忘れないことです。いつ地震があるか分からない以上予防はできませんができる準備はあります。 津波の被害は津波の来ない処に家を建てることにほかなりません。対症療法でしかありませんが自然相手では仕方ないことです。
 富士山の世界自然遺産登録がもうすぐに迫っていますが、負の事実も含めトータルで考えていかなくてはいけませんネ。

 115.亥の大変2013.5.3
 貞享3年8月16日(1686年10月3日)、遠江・三河地震 - M 6.5-7の内陸地震。(宝永地震の前震と思われます。)同一の断層と推定されます。
1703年の元禄地震と関連して考えるのは私だけのようですが元禄地震は海溝型の地震三河地震は内陸地震です。一見すると別の要因で何の関連もなさそうです。うまく説明できないのですが引っかかるものがあります。
宝永4年丁亥10月う日壬午の未上刻(1707年10月28日14時前、畿内、東海道および南海道諸国は激しい揺れに襲われました。(これが本震です。)
宝永4年10月4日(1707年10月28日)、遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度)を震源として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされてきました。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる大惨事でした。
南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震があります。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元する要因の関東地震の一つである元禄地震が発生しています。 何か引っかかっているのはこの辺りではないかと思います。必ず原因と結果はあります。東海・東南海・南海は一つの原因で動くトラフのトリガーに思えます。その結果は富士山の噴火でしょうか?

 114.地震の後に起こること2013.4.30
宝永地震

 噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)に推定マグニチュード8.6〜8.7と推定される宝永地震が発生しました。震度・規模の予測方法は別の機会に記述します。この地震は定期的に巨大地震を起している2箇所の震源域、すなわち遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生、またはこれらの震源域を包括する一つの巨大地震と考えられている。地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達したものと推定されます。
 宝永地震の翌日卯刻(6時頃)、富士宮付近を震源とする強い地震があり、駿河、甲斐付近では本震より強く感じられたという伝承が残っています、また11月10日(12月3日)頃から山麓で地響きが始まりました。また、この4年前、1703年・元禄16年11月23日(1703年12月31日)に発生した元禄地震の後にも、12月29日(1704年2月4日)頃から山鳴りが始まったことが『僧教悦元禄大地震覚書』に記されています。
噴火の始まり
宝永地震の余震と宝永火口付近直下の浅い地震活動が続く中、11月22日(12月15日)の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード 4から5程度の強い地震が数十回発生しました。23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていきました。噴火の始まりです。富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くした。夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交うのが確認されました。
江戸の降灰
この噴火により江戸でも大量の火山灰が降った。当時江戸に居住していた新井白石はその著書「折りたく柴の記」に降灰の様子が書かれています。
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」  江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を覆い、空から雪のような白い灰が降ってきたと記されています。
 また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばなりませんでした。別の資料では、最初の降灰はねずみ色をしていたが夕刻から降灰の色が黒く変わったと記されている(伊藤祐賢『伊藤志摩守日記』)。
2日後の25日(18日)にも『黒灰下る事やまずして』(折りたく柴の記)と降灰の状況が記されています。ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっている事である。噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠です。この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸〜4寸(5〜10cm)であるが、実際にはもう少し少なかったと推定されます。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認されました。この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされました。当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれています。
これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳
(蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をもじったもの。)
噴火の推移
宝永大噴火は宝永4年11月23日(1707年12月16日)に始まり12月8日(12月31日)に終焉しました。この期間噴火は一様ではなく最初の4日は激しく噴火したが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続きました。以下噴火の推移を説明すると...。
11月23日(12月16日):昼前から噴火が始まる。火口の近くには降下軽石が大量に落下し江戸まで白っぽい火山灰が降りました。午後3時頃小康状態となるが夕方から再度激しくなる。夕方からの降灰は黒色に変わり、火口近くにはスコリアが降下した模様。噴火は夜も続き、11月24日(12月17日):朝方一旦静まるが、その後小田原から江戸にかけて終日断続的に降灰の模様。 11月25日(12月18日):前日同様朝小康状態のあと、断続的に噴火。江戸にも降灰。 11月26日(12月19日):江戸では断続的な降灰が続くが、小康状態の期間が多くなってきました。
11月25日〜12月7日(20日〜30日):噴火の頻度や降灰量が減り 12月8日(12月31日):夜になって噴火が激しくなりました。遅くに爆発が観測され、その後噴火は終焉しました。 その時の噴火口、噴火によって隆起してできた宝永山は現在でもはっきりと確認できます。沼津方面から見ると正面に見えます。当時の浮世絵にも描かれ残されています。
 経緯を書き綴ってきましたが、地震のあとに噴火活動が活発になるなど、今後発生するであろう「東海・東南海・南海地震」では注意が必要です。 今回の東日本大震災もあと10年程度は噴火の励起もありえるのです。

 113.企業の社会的責任2013.4.8
 最近よく聞くようになったCSRですが、真の意味を知る人ばかりではないようです。CSRはcorporate social responsibilityの略ですが、アメリカの証券取引所に上場している企業に義務付けられた企業の社会的責任です。
 企業が事業活動において利益を優先するだけでなく、顧客、株主、従業員、取引先、地域社会などの様々なステークホルダーとの関係を重視しながら果たす社会的責任の事です。 具体的には、安全で高品質な製品・サービスの提供、環境への配慮、社会的公正・倫理にかなった活動などを行っているかなどが挙げられます。このような社会的責任を果たすことにより、業務プロセス改善によるコスト低減、技術・サービス革新、企業イメージの向上など様々なメリットがあるといわれ、CSRに積極的に取り組む動きが広がっています。日本でも、従来の「環境報告書」を「CSR報告書」へ改題するなど、社会的責任としての活動を広く捉え、アピールする企業が増えてきています。
 また、近年では社会的責任を十分に果たしている企業に投資する、社会的責任投資(SRI)という考えもあります。これは、従来の財務面による投資基準に加え、社会的責任を果たしているかを投資基準に加えて投資行動を行うことで、企業がCSRへの対応を迫られる要因の1つとなっています。今回の震災も例外ではありません。復旧・復興支援に於いても地域等のステークホルダーに対しどれほどの貢献があったか報告書があがっています。 社屋の一部を地域のステークホルダーに貸し出して復旧・復興に役立てた内容がこの報告書に掲載され、併せて感謝状も載っています。少々いやらしくもあります。


 112.大仏殿2013.3.28
 明応地震は明応7年(1498年)に発生した海溝型の地震です。津波が発生し房総から紀伊にかけての海岸と甲斐で揺れが大きく(推定震度5〜6)津波の被害が発生しました。記録を見る限り熊野本宮の社殿が倒れたと記載されていますが、熊野で津波は考えにくく、おそらく揺れによる倒壊と思われます。
 津波被害に関しては鎌倉の高徳院(大仏)の大仏殿が流されたとの伝承もありますが昨年の8月21日付の朝日新聞によるとこの地震による津波ではなく明応地震の3年前、相模トラフで発生した地震による津波が原因とする記事もあり特定できていません。

 1498年(明応7年)の明応地震は、南海トラフに沿って、駿河湾以西で起こっていますので、明応地震による津波が、伊豆半島の反対側にある鎌倉を8mの高さで襲うということは考えにくく、明応4年に関東で大地震があったので、この時の津波と混同された可能性があるということです。記録的には、明応4年の大地震について古文書(鎌倉大日記)に書かれているようです。 小欄ではひとまず鎌倉大日記の記述のとおり辿っていきます。 
 大仏殿の流失を引き起こす津波高が8〜10mと想定していますが高徳院まで届いてしまうのでしょうか。(手前の長谷寺に被災の記録がありません。)
 ところで、1703年には相模トラフ起源の巨大地震である元禄関東地震が起こりましたが、その4年後の1707年には南海トラフによる宝永地震が起こります、この時は富士山の噴火を励起しました。相模トラフを震源とする関東の大地震の3〜4年後に、南海トラフを起源とする大地震が起こったという事実には、注意が必要です。東京大地震が近いうちに発生するという観測がある中で、これが南海トラフ連動地震の引き金となる可能性が否定できないからです。

 111.東日本大震災、A企業の場合2013.3.27
 自治体だけでなく地震発生直後から企業の動きは活発でした。そもそもの出発点は日頃の防災意識もさることながら阪神淡路大震災の教訓が活きていました。 ある電話会社の場合、阪神エリアには全国の拠点から応援の技術者が参集しました。日本中の機材が集められ一夜のうちにふだんの建設工事の一か月分の設計量により復旧支援の土台が出来上がりましたが問題となったのは道路の寸断でした。ソフトはできてもハードが修復できないことでした。 資材搬入に当たっては海路と空路に切り替えられ物品所要が守られました。 ある社員は実家の漁船を繰り出して試験機器の搬送を果たしました。そんな経験を積み上げたところに今回の震災です。 東北に向けて首都圏から修理用資材が振り向けられました。首都圏内の保全物品が全て東北向けに...。 首都圏内で物品の不足もでる事もありましたが発災から半年ほどで緊急対応が達成できました。この辺りの対応につきましては今後小欄でご紹介しますが項目だけでもここでご紹介しましょう。@地震による故障の規模(件数)、種類A津波による故障の規模(件数)B応援稼動C復旧の稼動(動員の規模)等々。
 ここでは触れませんが交換機の予備伝送路。重要回線の異経路2ルート化。神経系回線の二重化等がありました。
P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8 P9 P10 P11 P12 P13 P14
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CGI-design