備えあっても‥・
この、HPは「春夏秋冬」の付録です。 本誌も是非ご覧下さい。http://park10.wakwak.com/~photo/pindex.htm
このコーナーは地震の被害を減らす事が出来ればとの思いから作成しました。近年の国内地震で最大級は元禄地震です(2005年10月現在)。 2004年頃から千葉県内、特に九十九里浜を中心に調べ始めました。 地震の被害を防ぐ事は出来ませんが減少させる事はある程度可能です。自分の身は自分で守る。 元禄地震、関東地震、安政江戸地震等の歴史地震、兵庫県南部地震、中越地震等をお手本に、今後やってくるであろう大地震の対策を考えたいと思います。 地震発生直後は道路が寸断して救急車も、自治体の救援も期待できません。 最低3日間は自力で生き延びなくてはなりません。3日分の食料と水を確保しておきましょう。
2013年5月28日、政府の中央防災会議の作業部会(主査・河田恵昭(よしあき)関西大教授)は28日、マグニチュード9級の「南海トラフ巨大地震」対策の最終報告書を公表しました。その内容によりますと従来非常食の備蓄は3日間として来ましたが南海トラフ対策を勘案すると1週間の備蓄が必要と勧告しています。


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 31.防火樹2006.5.5
 阪神淡路大震災、古くは関東大震災、もっと古くは安政の江戸地震は揺れの災害はもとより、それにも増して被害を大きくしたのは地震後の火災です。 江戸は火事と喧嘩が華だとたとえられますが火事の延焼防止に道幅を大きくとった「広小路」がありました。 昔の火消しは消火作業といえば燃え移る先の「燃料」(家屋)を壊して無くしてしまう事でした。消すのは火災が小規模の時だけです。 燃え盛る屋根の上で纏を振るのはまだ消せる状態の時だけです。 話が横道にそれますが纏の飾りの一番上の丸い玉と次に菱形の枡です。 玉はケシの実。 菱形は枡で続けて読むと「消します」になります。 さて、「広小路」のような防火区画がとれればよいのですが住宅街ではチョット無理です。 そこで出番が防火樹です。火に強い樹木の生垣です。【防火樹とは】
 防火力が大きい樹種として、一般に、@常緑樹であること、A葉が肉厚であること、B樹形が大きいもの等が挙げられます(表)。一方、防火力が低いものとしては、枝・葉に樹脂を多く含むもの、たとえばスギ、マツ類およびクスノキはこれに該当します。樹木以外でも、タケ類、ササ類は、その枯葉が着火しやすく、かつ桿に油が含まれており、延焼の危険性が高く、防火力は小さいといえます。
防火力の大きい樹種はヤマモモ、モッコク、ネズミモチ、モチノキ、カクレミノ、ヤブツバキ等です。これを生垣にすることで延焼防止になるのです。ブロック塀の様に倒れる危険もありません。 写真はヤマモモです。実を焼酎に漬けて果実酒にしては如何。

 30.深照寺の古文書(長生村文化財)2006.4.23
 元禄地震による被害を記した文書が驚の法華宗、深照寺に伝わる「當山記録・津波諸精霊」で宝暦3年(1753年)11月23日に記録が伝えられています。
本村一松海岸に於いても津波に襲われ、家財道具などが流され多くの死傷者を出した。「女子供など206人死亡し」云々と、元禄地震による悲惨なできごとが記されています。被害は非常に甚大で深刻でした。
 この碑は地震(津波被害)の50年後に建立されていますが当時の伝承話が50年経っても廃れてはいない新鮮な情報だったことを思う時に悲惨さが伝わってきます。 私もこの地域の出身です。先祖の中には犠牲者があったかも知れない事が脳裏をかすめます。 九十九里浜沿岸の市町村が合同で災害対策を立てない限り、有効な手立てはありませんが、市町村合併の足並みの悪さを考えれば...

 29.耐震構造2006.4.19
 昭和56年の法律制定により耐震基準が見直され、地震に対して備えが厳しくなりましたがそれ以前の建物は「既存不適格」と呼ばれています。すぐさま違反というわけではありませんが地震に弱い建物ということになります。 耐震診断をして補強工事が必要になります。費用は、自治体により対応が異なりますが補助を実施しているところもあります。 近頃の建物は建物自体を柔軟構造にして耐震能力を高めていますが、法隆寺五重塔は耐震工事を施していませんが何度の地震にも耐えてきました。
耐震構造の秘密は?、○重塔は真ん中に芯柱を通して耐震性の向上を図っています。東京駅前にそびえる丸の内ビルディングもこの工法を取り入れています。最上階から芯柱を吊るして地震の揺れを各階に分散しています。 温故知新、恐るべしですね。

 28.備え(身を守る15の原則)2006.4.16
 前置きが長くなりましたが、いよいよ地震に対する備えに入りましょう。
@まず、自分の安全を確保する。身を守る事が第一です。机の下に隠れ、机の脚をつかんで頭を守ります。Aガスコンロやストーブの火をすぐに消しましょう。でも無理をしてはいけません。地震に対応した自動消化の製品が多くなっています。無理に近づいて火傷をしてはなんにもなりません。B部屋に閉じ込められないように避難路の確保が大事です。ドアーや窓を開けて物を挟んで固定します。C状況の確認が必要です。その場の状況を理解しましょう。揺れがおさまるまではじっとしていましょう。D水の確保をしましょう。水は一人3gを一日で消費します。3日分の水を確保してください。E地震直後に外に飛び出さない。外はブロック塀の崩壊等の危険を避けましょう。F大声で呼びかけ家族の安否確認をしましょう。子供や年寄りは部屋まで行って確認しましょう。G日頃から避難の準備をしておきましょう。市販の避難グッズのほか、普段使っている薬とか女性なら生理用品等を追加しましょう。H近所の人と共同して行動しましょう。I励ましあって気力を高めましょう。特に子供や年寄りは必要以上の不安を抱えます。心配するなの一言が以外に興奮を抑えてくれます。J火災の原因となる通電火災防止のためにブレーカーを切ります。神戸の地震は冬でした。電気ストーブが停電回復と同時に火災を起こしたのです。Kガスモレがないように元栓を締めましょう。通電火災と同様の趣旨です。L余震に備えてください。気を緩めずに次の行動の判断を。M情報収集のためにラジオの用意を。また、携帯電話も予備の電池が必要です。N電話は最後の手段と考えましょう。電話は繋がりません。輻輳が発生します。(込み合って交換機がパンクするのです。)
あと有効な避難方法は、三陸地方に伝わる「津波テンデンコ」というものがあります。これは、地震の後に津波がくるから兎に角逃げろ。テンデンバラバラに高台に逃げてそこで落ち合えばよいという考えです。

 27.液状化2006.3.26
 妙法寺(白子町)に津波供養碑があります。 津波被害から303年。 その年の前年、元禄15年に赤穂浪士の討ち入りがあり、津波の年の2月に切腹の判決があり、執行された。 忠臣蔵と津波被害に何の因果関係もありませんが時代は江戸後期です。 この地震(津波)で幕府は政権に影響はありませんでしたが、安政の江戸地震により、崩壊に向かうのです。 これについては、いつか書きますので、今回は取り上げません。
白子町が一番被害が大きく次が隣の長生村でした。 原因は海辺の村という事実と川の逆流津波により、水に濡れた事による凍死です。現在は川の護岸はコンクリートです。簡単には決壊しないでしょう。しかし、凍死は考えられます。液状化による出水です。

 26.いつ来るか2006.3.20
 季節の運、時の運については既に書きましたが、つくづく運を感じます。
神戸の地震が夏であれば通電火災は無かったでしょう。 元禄地震が夏であれば凍死した人はいなかったでしょう。 インド洋の津波が冬であれば観光客はもう少しすくなかったでしょう。 要は、いつ来るか分からないというのが地震を初めとする天災です。
言い換えればいつ来ても良いように準備することしかないようです。食料の備蓄は誰でも考えます。 でもトイレは? ダンボールの便座でビニール袋に汚物を収納する簡易トイレをデザインして見ました。 どこかで製品化できないか?
トイレの準備は忘れがちです。 食べれば必ず出ます。 
もう一つ、地震が来るのが夏だったら...。夏でも冬でも日本人は風呂が欲しい。車の中には、帆布で作った湯船があります。 川の水で湯を沸かします。

 25−1.侵食をとめると新たな侵食が2006.3.16
少々地震の本筋から外れる事になりますが、お許し下さい。写真は銚子市の屏風ヶ浦です。海面の石積みがお分かりになるでしょうか。ここに堤防を築き崖の侵食を防ごうというのです。 東洋のドーバーと呼ばれる風光明媚な崖も海水に侵食され、九十九里浜へ砂を供給し続けてきましたが、この工事によって砂の流出はストップしました。
九十九里浜の南の太東岬も九十九里浜への砂の供給が止まって久しい時が流れました。
太東岬は元禄地震でも隆起しています。 人は地震によってもたらされた陸地を海に返そうとしません。
今、九十九里浜は侵食によって砂浜の面積を狭めています。 津波の直撃があれば小さな、無いに等しい砂浜を飛び越えて集落を襲います。
何とか、抜本的な対策を打たないと... 素人の知識ではどうしようも有りませんが是非、昔の海を取り戻せるようにお願いしたいと願います。

 25.浜崖(砂浜の侵食によって崖状に...)2006.3.12
 23項で述べた浜崖はどういうものか? の、問い合わせメールがありました。写真が砂浜侵食の「浜崖」です。侵食の原因は九十九里浜の形成と同じルーツをたどるのです。
元々、飯岡〜銚子にある屏風ヶ浦の侵食と太東岬の侵食砂が九十九里中央に集まり砂浜に砂を供給して白砂青松と形容される砂浜が生まれたのです。 ところが、崖上の安全確保のために屏風ヶ浦、太東岬に崖侵食防止工事を行った結果、砂の供給がストップし砂浜からは離岸流(ミオ)によって砂が海に還って行ったのです。 こんな海は海底が砂によって洗濯板状に削られています。 それは、津波のジャンプ台そのものです。特に遠浅の海は津波が高くなります。飯岡と銚子は隣り合っているにもかかわらず銚子側では波は殆どなく飯岡では津波の被害が拡大されます。
このまま、新たな砂の供給がなければ九十九里浜はなくなります。 千葉県は今、漁港の浚渫土を活用して、砂浜再生計画を検討していますが、工事により砂の供給量が不足している現在砂浜再生は可能なのか、抜本的な対策はあるのでしょうか? なんとしても再生しなくてはいけません。 ウミガメの産卵も見られなくなります。 寂しい限りです。

 24.何故、どうして..2006.3.7
 プレートテクトニクス理論を良く理解できていませんがプレートの移動は地球の自転方向とは逆に(東西方向)、また北方気流とも逆に(南北方向)です。プレートの移動方向を見ていると日本列島の辺りが一番複雑な動きに見えます。 一方、イギリス付近は、プレートの分散点にあたり地震は殆ど観測できないとの事です。震度2〜3程度の地震なら我々日本人ならあまり驚きません。  明治政府は経済や軍事等様々な技術者を海外から招聘しました。所謂、御雇外国人(おやといがいこくじん)です。 イギリスの鉱山学者ジョンミルンとジェームスアルフレッドユーイングの2人は横浜の寄留地で震度5程度の地震に遭遇し大変な驚きであったそうです。 日本人は鯰が暴れたと笑い飛ばし、あまり興味を示していないのを知り地震学という新たな学問の立ち上げに尽力しました。1881年(明治14年)の事です。日本地震学会の誕生でした。 今や、私の様な素人も含め地震研究が盛んになり、何故、どうしての幼児の質問責めのような状況です。 対する専門家も大変な対応ブリです。 一昨年のボルネオ津波で世界中が、津波研究の重要性を理解しました。 地震のメカニズムを知るよりも被害を少なくするにはどうすれば良いか考えたいと思います。 写真は南房総の隆起段丘です。

 23.汀より、およそ2km2006.3.2
 元禄期の汀線は現在より200m〜500m手前であったそうです。 県道123号線は海岸からおよそ2kmの辺りを海岸と平行して走っていますがこの辺りは砂地です。
今、一宮川から南側は海岸の侵食防止工事を施しています。 元禄期は押し寄せる砂で汀線が沖合いに延びている時期でもあります。海岸の成長期です。 写真は白子町中里地区の墓地の一角にある無縁塚です。墓石が壊れて墓(塚)供養の状態です。
2月26日のテレビ番組で日本列島は地震の活動期に入った。と解説していましたが、私も同感です。 当時と違うのが浜辺の崩壊です。浜崖と呼ばれる侵食が津波にどの様な影響を与えるか? 浜崖が出来る海岸は既に海中に洗濯板状の段差が出来ているとか…。 津波はこの洗濯板の段丘を駆け上がり陸に競りあがってきます。 ここ、中里地区は汀より、およそ2km。 波乗り道路ができて、堤防の役目をしてくれそうですが海までの距離は遠いのか、近いのか?波乗り道路を津波が越えると大惨事が待っています。
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