備えあっても‥・
この、HPは「春夏秋冬」の付録です。 本誌も是非ご覧下さい。http://park10.wakwak.com/~photo/pindex.htm
このコーナーは地震の被害を減らす事が出来ればとの思いから作成しました。近年の国内地震で最大級は元禄地震です(2005年10月現在)。 2004年頃から千葉県内、特に九十九里浜を中心に調べ始めました。 地震の被害を防ぐ事は出来ませんが減少させる事はある程度可能です。自分の身は自分で守る。 元禄地震、関東地震、安政江戸地震等の歴史地震、兵庫県南部地震、中越地震等をお手本に、今後やってくるであろう大地震の対策を考えたいと思います。 地震発生直後は道路が寸断して救急車も、自治体の救援も期待できません。 最低3日間は自力で生き延びなくてはなりません。3日分の食料と水を確保しておきましょう。
2013年5月28日、政府の中央防災会議の作業部会(主査・河田恵昭(よしあき)関西大教授)は28日、マグニチュード9級の「南海トラフ巨大地震」対策の最終報告書を公表しました。その内容によりますと従来非常食の備蓄は3日間として来ましたが南海トラフ対策を勘案すると1週間の備蓄が必要と勧告しています。


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 130.三つのT(災害医療現場の一つ目のT)2017.8.8
災害医療と救急医療しは異なるものです。災害医療の特徴は「限られた人的・物的医療資源で膨大な負傷者に対応しなければならない」ということです。同じ地域もしくは近隣地域の人達が負傷者であったり医療関係者であることも珍しくありません。
災害現場での医療活動で特に重要なのは@トリアージ(選別)triageAトランスポーテーション(搬送)trabsportationBトリートメント(治療)treatmentの3つのTです。
トリアージとは負傷度にあわせた「負傷者の選別」のことを言います。元来、フランス語のtrier(選り分ける)から発していて、悪いコーヒー豆がほんの少しでも入ってしまうと全体のコーヒー豆が駄目になってしまうため悪い豆を選り分けた言葉に由来しています。ナポレオンの時代になり負傷した多くの兵士の中から再び前線に派遣できる軽症者を選別する言葉に使用されました。第一次世界大戦以降現在のトリアージの概念が確立されました。 
★災害現場での限られたスタッフ・医薬品等の人的・物的医療資源のなかで、一時に多数発生した負傷者をひとりでも多く救命するためには緊急の治療を要しない軽症者はもちろん救命の見込みのない超重症者に治療の優先権を与えないことが必要です。つまり「ひとりの命を救うために10人の命を失ってはならない」このことが災害医療の特殊性です。
★トリアージは救急隊員・医師・看護師等が行います。短時間に判断するため強い決断力を伴います。1回で終わるのではなく状況の変化に応じて繰り返し実施すべきです。
原則として右手首にトリアージタグをつけます。決して衣類衣類や靴につけてはいけません。具体的には、赤・黄・緑・黒の4色が定められていて水に濡れても大丈夫な紙製でもぎり式になっています。
赤(緊 急):直ちに治療を行えば救命が可能なもの。
黄(非緊急):多少治療が遅れても生命には危険が及ばないもの。
緑(軽処置):ほとんど治療を必要としないもの。
黒(不処置):すでに死亡したか、生存の可能性のないもの。
また、優先的に治療を差し伸べる災害弱者としてこども(Children) 女性(women) 老人(aged people) 障害者(patients)があります。頭文字をとってCWAPといいます。負傷の緊急度と重症度に加えこれ等も勘案しなくてはいけないものの一つです。なお「生命は機能に優先し、機能は美容に優先する」とされます。
次回は二つ目のTをご紹介します。

 129.天災は忘れなければ...2017.8.5
来月1日は防災の日。そう、1923年(大正12年)9月1日のあの地震です。本項13にも当日の描写を祖父の話から引いていますが東京都慰霊堂の取材の折、東京都慰霊堂の向かいに当時の日本電信電話公社墨田地区管理部がありました。守衛長の田中さんからお聞きした話をご紹介します。 いま、ご存命なら100歳位でしょうか、子供の頃の話ということでしたが今思い返すと年齢に少し疑問が残りますが気にしないで書きすすめます。
当日は土曜日で学校は半ドン。11時半ころ下校したそうです。南風が強く残暑の厳しい日であったそうです。(気象状況は13をご覧下さい。)田中さんの自宅は本郷にあったそうですがあまり揺れなかったそうです。文献によると警視庁辺りの揺れは非常に強く都内では揺れ方にムラがあったようです。 半ドンのその日、父親は電電公社の前身の電信施設処に勤めていたそうです。やはり半ドンで帰宅し一家そろって昼食を始めた時に地震があったそうです。揺れは深度3位でとても大地震ではなかった。外ではサイレンが鳴り、火事なのかと思ったそうですが火災はなかった。本郷通りでは道の両脇の建物が倒壊しました。
 暫くすると南の空に黒い竜巻のような煙が立ち昇っていたそうです。火災旋風です。この火災旋風だけでも3万人以上が犠牲になりました。

地震だ火を消せという合言葉は現在では不要。消防庁の方から伺いました。自動的にコンロなどには消火装置が働くようになっているそうです。
注意しなくてはいけないのは何か。連絡方法や待ち合わせ場所でしょう。次回はそんなことを紹介します。

 128.幕末の争乱⑵、嘉永小田原地震2017.8.2
2月2日(陽暦3月11日)午前10時過ぎに最初の揺れ、次いで10分程間隔をあけて2度目の揺れがあって深度は5+(現在の深度表に当てはめた)。
記録では二度のうちどちらの揺れが大きかったのか不明ですが震源も分かっていません。127な略地図の楕円形エリアが被災状況からの推定震源域です。この地震の被害は小田原城の天守閣が大破大久保加賀の守藩主の屋敷が半壊、藩校(集成館)をはじめ町屋などが5百戸が潰れるなど小田原藩領内では百姓家全壊が800軒以上半壊が1400軒、破損が1200軒余りにのぼる被害がありました。
現在ではこれらの被害のほかインフラに大きな比重が割かれることが予想されます。幕末の争乱⑴、嘉永小田原地震で始まる一連の事件は世相の激変は現代社会の抱える問題に相似しています。
一連の地震と復興を通して避難所解説・受け入れから仮設住宅の建設と問題点について書き進めます。掲載はDiaryで。 (挿絵は岩波新書350より抜粋)

 127.幕末の争乱⑴、開国2017.8.1
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に浦賀沖にアメリカ東印度艦隊4隻が突然現れ開港を迫る事件がありました。黒船来航です。当時の世相は黒船だけではなく開国をめぐっていろいろな事件が輪をかけていた時代背景を忘れてはなりません。この時からさかのぼること150年は元禄16年元禄地震の年、また155年後は東日本大震災の年です。時代は違っても世相は同様の風が吹いていたように思われます。1923年(大正12年)の関東大震災はこの時から70年後の出来事です。
黒船来航の4ヵ月前の2月2日(陽暦3月11日)相模湾北西部沿岸の小田原でМ7の大地震が発生しています。嘉永小田原地震です。元禄地震の震源に近い場所です。今回の震災は新たに震災時の避難一時措置など地方自治のあり方に一石を投じているようです。
戊辰戦争を経て開国即ち江戸城無血開城と世紀をまたぎ大正6年は戊申戦争から50年この頃までの天変地異は開国の時期です。産みの苦しみの時期です。暫くは地震の背景(地震に背景などありませんが..)を考えながらこのコラムも考えたいと思います。

 126.ハザードマップ考2017.8.1
自治体が主体で作成するハザードマップ。 どこまで正確なのか考えてみるのも良いのですが切り口によっては全く異なる結論になることもあります。地震のハザードマップを見ると、○○市地震ハザードマップ(揺れやすさハザードマップ)と(地域の危険度マップ)がありますが揺れやすさとは同じ規模の地震(マグネチュード)で震度がどの程度違うかというものでしょうか。Y市のハザードマップではM7.2の地震での家屋倒壊率を市内各所でマッピングしています。震央も不明な地図ではどうしてよいのか不明です。もう一つの危険度について地盤の違いが言いたいのでしょうが震央が示されていないのでどうしてよいかわかりません。
このようにハザードマップを示すのであればそれぞれのケースを明確にしなくては混乱を招き兼ねません。 写真と記事に関連性はありません。

 125.元暦の大地震2016.5.13
また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚えはべりしか。

 かく、おびたたしくふることは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

 四大種(しだいしゆ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みくし)落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。

方丈記の一節ですが、そもそも方丈とは方は四角、丈とは長さの単位(3.5m位)。つまり3.5m四方の広さの小屋であった。 それも何時、地震が来るか分からないので組み立て式(外題のプレハブに近いもの)だったという。

 124.未知の地震2015.5.18
 気になる新聞記事がある。サンケイ新聞。
千葉県・房総半島東部の九十九里浜で、歴史記録にない未知の巨大津波の痕跡を産業技術総合研究所などのチームが発見した。8〜14世紀に発生し、当時の海岸線から少なくとも約1キロ内陸に浸水したとみられます。不明な点が多い房総半島沖の地震や津波の解明につながると期待されます。

 チームは九十九里浜周辺の地層を調査。南北約25キロの範囲の複数の場所で、津波で運ばれた砂が堆積したとみられる2つの層を見つけました。年代測定の結果、下層は8〜14世紀、上層は14〜15世紀と分かりました。

 この地域では1677年の延宝房総沖地震や、1703年の元禄関東地震で大津波が襲ったことが知られます。地層の年代は誤差が大きく、上層はこれらの津波だった可能性もありますが、下層に該当する記録は残っていません。

 房総半島には、南方沖の相模トラフ(浅い海溝)で起きる関東地震によって地盤が隆起した段丘がありますが、下層の年代に合致するものは見つかっていません。このため関東地震ではなく、東方沖の日本海溝で起きた大地震による津波の可能性が高いとみられる。産総研の澤井祐紀主任研究員(古地震学)は「津波の年代の絞り込みや、発生場所の解明をさらに進めたい」と話しています。

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 123.江戸直下地震2015.3.19
現行の首都直下地震対策は、平成17年9月に中央防災会議で決定された「首都直下地震対策大綱」をもとに、各省庁、地方自治体、事業者等が施策を推進してきている。
しかしながら、平成23年3月に発生した東北地方太平洋沖地震を受け、今後の想定地震・津波の考え方として、「あらゆる可能性を考慮した最大クラスの巨大地震・津波」を検討すべきであるとされた。
このため、平成23年8月に内閣府に設置された「首都直下地震モデル検討会」(座長:阿部勝征東京大学名誉教授、以下「モデル検討会」という。)において、これまで首都直下地震対策の対象としてこなかった相模トラフ沿いの大規模地震も含め、様々な地震を対象に加え、最新の科学的知見に基づき検討が行われた。モデル検討会では、相模トラフのプレート境界で発生する海溝型の大規模地震についてのモデル検討を行い、想定される震度分布や津波高を試算するとともに、これらの大規模地震は数百年単位の周期性を持って発生していることを確認した。
これを受け、本ワーキンググループは、マグニチュード(M)7クラスの地震のうち、被害が大きく首都中枢機能への影響が大きいと思われる都区部直下地震を防災・減災対策の対象とする地震として設定することとした。また、相模トラフ沿いの海溝型の大規模な地震に関しては、当面発生する可能性は低いが、今後百年先頃には発生の可能性が高くなっていると考えられる大正関東地震タイプの地震を長期的な防災・減災対策の対象として考慮することが妥当である。 首都直下型地震の内閣府の最終答申の書き出しです。 内容は57ページにものぼる報告書ですが、安政の江戸地震の浮草子を読んでいるかのようです。安政の江戸地震は江戸直下型の地震で現在の築地、深川辺りが中心で日本橋辺りも被害が大きかったことが記されています。 左の絵と時代は少し異なりますが絵の中の犬がいるあたりが晒場です。罪人を3日晒したのち刑に処するというアレです。 現在は交番になっていますがそのあたりも被害があったようです。その晒場の反対側に関東大震災(1923年)の碑があったそうですが見つけることができません。

 122.風化2015.3.12
 何度も引用して甚だ恐縮ですが、『天災は忘れた頃にやってくる。』 寺田寅彦の言葉ですが、彼は戦前の物理学者であり、随筆家、俳人でも知られています。夏目漱石とも親交が深く『吾輩は猫である』や『三四郎』のモデルとも言われていますが自身の著作の中にこの言葉はありません。発言録に見ることができますが、なぜ、この言葉がこんなに有名になったのか調べてみました。
『天災と国防』(初出は1934年11月、『経済往来』)にあるのは、次の言葉です。
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
経緯は中谷宇吉郎の随筆「天災は忘れた頃来る」をご覧ください。
 これは1923年の関東大震災を題材にした座談会での発言だということです。この言葉を残した翌年に死去し故郷の高知市寺田家墓地に埋葬されています。
忘れた頃というのは、人々の記憶から消え去ってしまった風化のことです。彼の著作に時々現れる風化という単語を意識したのか、そんな重箱の隅をつつくのは私だけでしょうか。

 121.地震発生確率、3.11以後2015.3.11
昨日の夕刊フジは次のような記事を掲載しました。
 東日本大震災から4年を前に、次の大地震のリスクが顕在化した。東北や関東地方で最近2年間の地震の発生頻度が「3・11」前の100倍以上に達していることが判明。マグニチュード(M)7級の首都直下地震が懸念されるエリアも震災前の10年間と比べて地震活動が約2倍に上昇しており、警戒が必要だ。
 東北大災害科学国際研究所の遠田晋次教授(地震地質学)が、震災から2年後の2013年3月11日から今年2月18日までに東日本の地下20キロ以内で発生したM1以上の地震の発生頻度を解析。福島県・浜通り、千葉県・銚子、岩手県・久慈などのエリアで、震災前の10年間と比較して発生頻度が100倍以上になっていた。
 首都直下地震の発生が懸念される東京を中心とした100キロ圏内の地下100キロ以内の地震も分析したところ、最近2年間でのM3超の発生頻度が震災前10年間の約2倍に増えていたという。
 遠田氏は「震災から4年がたつが、東日本はいまだにその影響をひきずっている。2月にも三陸沖で中規模の海溝型地震があり、津波注意報が発令された。大津波を伴う海溝型の大地震のリスクも残ったままで、警戒が必要だ」と話す。、...後略

たぶん、不安をあおるのが目的ではないでしょう。本当なんだろうと思いますが、いきなりこんな記事を読むとびっくりを通り越して心配になってしまいます。 具体的な地名も登場するので余計にそう思ってしまいます。
私たち一市民は何処に逃げてどういう連絡方法を確保するかしっかりと決めておく事が第一です。
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