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2011年10月31日
天ぷら 〜ベビースターラーメン〜
昨日コンビニで見かけたので、買ってしまった。 キンキキッズのCMのせいだろう。 懐かしい味がした。 思い出してみたら、以前同じ会社の「ラーメンおつまみ」にハマっていたことがある。 ラーメンおつまみの味と同じである。 ベビースターラーメンの味付けだから当たり前かも知れない。 しかし、「ラーメンおつまみ」の時期は脱して、亀田の「柿の種」に戻ってしまっている。
ベビースターラーメンの「おやつカンパニー」は津(三重県、旧一志町で津市に合併)にある。 津は三重県の県庁所在地であるが、知名度はイマイチ。 三重県では、牛肉の松坂、伊勢神社の伊勢、真珠の賢島のほうがよく知られている。 もっとも、真珠はいまや賢島より宇和島(愛媛県)のほうが盛んであるが。
地方で起業して上昇しそうになったら、首都圏へ会社ごと移すのがふつう。 かっぱえびせん、ポテチのカルビーは典型的な例で、広島(宇品)で生まれた会社とは思ってない人のほうが多い。 首都圏に移ったカルビーは、製品を多角化して成功している。 一方、おやつカンパニーは製品を特化しているためか、津に留まっている。
しかし、ベビースターラーメンの天ぷらは、たぶんもう買わないだろう。
投稿者 tadashi : 05:37 | コメント (0)
2011年10月30日
ラジオ会館解体へ 〜秋葉原のシンボル〜
老朽化して解体されるのも時の流れ、もっともアキハバラ自体がAKBへ移ってしまって、昔の面影がない。 でも去年もD-SUBケーブルを探したり、雰囲気を楽しんだ。 現実的には「通販」で事足りるけれど、、、
ワールドシリーズはカーディナルスの優勝でケリがついた。 レンジャーズのオーナー、ノーラン・ライアンは残念だった。 実況中もよく観覧席の顔がクローズアップされていた。
投稿者 tadashi : 07:22 | コメント (0)
2011年10月29日
デジカメ初期のころ
FUJIFILM DS-7 (Clip-It) 1996年発売
デジカメ自体は古くからあるが、商業製品は90年代半ばに登場した。 やはり初めは高かった。 手元にあるのは上記の写真のもので、普及期に入り出したころの製品。 メモリは2MBあるが、電池の持ちが悪くて1回の充電で10枚くらいが限界だった。
これでも1997年、研究費獲得のため西条のブールヴァールを車で走って、運転席から見える車(複数)を撮影をした。 日曜日だったので、家のMacから研究室へ転送した。 院生のH君はMacフォーマットから研究室のフォーマットに変換するのに手間取ったようで、申し訳なかったことを思い出す。
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この初期のタイプはファインダーレスなのに、その後のニコン、キャノンのコンパクト・デジカメにはファインダーがついている。
FujiFilmいわく
デジタルカメラ DS-7 クリップ・イット 69,800円 平成8年7月12日発売
普及タイプでありながら高画質な小型・軽量デジタルカメラ
カメラとしての携帯性・即時性・ランニングコスト
マクロ9cm〜無限 カメラ被写体 640×480dot
RS232C SSFDC (PCカードアダプターでPCカード使用可)
投稿者 tadashi : 00:05 | コメント (0)
2011年10月28日
終わりそうで終わらない 〜レンジャーズvsカーディナルス〜
今年のワールドシリーズ、毎回最終回近くだけ見ていた。 昨日までレンジャーズ3勝、カーディナルス2勝だったので、今日で終わり、と思って6回以降を見てた。 レンジャーズが課ちそうだったが、9回、10回と2度追いつかれて、カーディナルスが11回にサヨナラ勝ちした。 ともに3勝なので、明日もう1日試合がある。
今週3年振りに歯医者通いをした。 歯石を取ってもらうだけなので、上1回、下1回の2回ですむかな、と思っていた。 午前中に2回目で行ったら、「来週もう1回来てください」と云われてしまった。 日常生活でも、「終わりそうで終わらない」ことはよくあるみたい。
投稿者 tadashi : 13:43 | コメント (0)
2011年10月27日
「尊農攘夷」運動
「尊農攘夷」運動は、80年代の牛肉・オレンジの輸入反対以降続いているが、今回のTPPでも案の定盛り上がりをみせている。 江戸時代末期の尊王攘夷(尊皇攘夷)のころは、ペリーの米国というより英仏の植民地化の危険もあったので、攘夷も意味があった。 TPPの場合の攘夷は、この期に及んで「とにかくイヤ」と云っている。
それにしても、国会議員の反対数が多すぎる。 アホ議員の多い責任は国民にある。 TPP延期なら、どうしようもない国である、ことにマチガイない。
投稿者 tadashi : 02:09 | コメント (0)
2011年10月26日
フィルムカメラの思い出
カメラのメカに興味はあるが、写真の腕があるわけではない。 カメラとの最初の係わりは、カミングアウト(2010.9.24 pdf)で書いたように、小3で保養所に居たとき。 暗室はあったので、自由時間に現像・焼付で遊ぶことができた。 持っていたカメラは子供用の玩具みたいものだったが、一応写真は撮れた。 簡単な構造で、すぐバラすこともできた。 シャッターはバネで動かす仕組みで定速、1/25だったように思う。 これ以降は、バラせるようなカメラにはお目にかかれなくなった。
二眼レフもそんなに長くは使わなかったように思うし、中学時代のカメラの記憶はない。 高校になってから、ミノルタA.2という真ん中のふくらんだカメラを使った。 入学後写真部へ入ったけれど、「写真の腕の向上」には興味がなかったので、すぐやめた。 適応しない大学に入って「すぐやめる」のと似ているかも知れない。 クラブ活動はやめてハムの免許をとり、須磨クラブ(アマチュア無線)へ行くようになった。
大学入学以降はカメラも持っていなかった。 理由は簡単で、カメラを持ってる人が必ず居るから、自分は持たなくてもよかった。 ひとに撮ってもらった写真をもらうだけになった。 その後、自分で買ったのは1974年フランス滞在に出かける直前、東京(神田)でコニカC35を買った。 レンズはF1.8で明るいので気に入っていた。 1.8なので「フラッシュなし」で、かなり暗くても撮ることができた。 これは10年くらいは使ったけれど、CDSがダメになった。 1990年ころ、名古屋の栄付近の中古カメラ店で、このコニカと同じタイプを見かけた。 レンズは2.8で明るくなかったが、8千円くらいだったので即購入した。 ただし、ほとんど使わなかった。
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大学の研究室では、キャノンAE-1を購入していた。 これは研究室で製作したコンピュータのディスプレイ画面の撮影用のもの。 学会発表用以外に、インターフェース誌の記事でも活躍した。 一眼レフの世界では、「絞り優先のニコン」と「速度優先のキャノン」が拮抗していた。 キャノンにした理由は、速度優先にして画面のフリッカーを無視できるようにしておくためだった。 こういう業務用以外の写真には興味がなかった。 だから、「個人的に写真を撮る」というのは、外国出張時以外では、ほとんどしていなかった。
投稿者 tadashi : 06:47 | コメント (0)
2011年10月25日
二眼レフ
目が2つあり、下の目はフィルムつまり撮影用だけど、上の目はファインダー。 当時二眼レフといえば、ドイツのローライフレックス(廉価板「ローライコード」)しかなかったが、高価でお金持ちしか持っていなかった。 日本製として、はじめてリコーがリコーフレックスとして1950年に売り出したが、最初1万円を少し超えていた。 今でいえば10万円ぐらいの感覚。 初任給はまだ1万円に達していなかった時代の話である。 2年くらいしたら1万円を切って、我が家も購入した。 1953年の小学校の修学旅行に持っていった。
フィルムはブローニーで正方形(6cmx6cm)。 10年くらい前にフィルムを入れて数枚試し撮りしたが、未現像のまま。 なんせ東広島ではこういうのを扱う店はなく、広島まで行かないとダメ。 面倒なのでほっておいてたら、ケースのパッチン留める金具が錆びついて離れなくなった。 引きちぎりそうになったので、ケース装着のままで撮った。
二眼レフの製造は1957年で終わって、カメラは35mmフィルム機へ移行した。
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ご指摘のメールがあり、通称「ローライコード」を廉価板{ローライコード」に訂正しました。
Mさんからのメールより
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文系が苦手だった子供の多くに共通しているのかもしれませんが、当方も子供の頃カメラをいじくり回した方です。テブログにローライフレックスとローライコードのことに触れておられますが、小生の記憶では両者は別物だと思います。
・・・・・・・・・・・
投稿者 tadashi : 01:58 | コメント (0)
2011年10月24日
一眼レフ
ご存じのように、「一眼」はファインダーと撮影用が同じ1つの目、「レフ」は、ファインダー用はミラーで反射させているのでレフレックス、それで「一眼レフ」という名称がついている。 シャッターがボデイにあればレンズ交換ができる。 これは一眼レフ固有の特徴というより、レンズシャッターか否か、という問題。 一眼レフは高級品だから、レンズ交換が自然、というべきだろう。
デジカメ時代になっても、「ファインダー」が残っているのも面白い。 かれこれ10年になって、ファインダーレスとかミラーレスが出てきたのも、「素人にはファインダーは不要」ということだろう。 ニコンも1(one)を新製品として宣伝していて、今日あたり店頭に並ぶ、 タイの洪水以前に出来ていた、ということかな。 ソニーはコニカ・ミノルタ系らしいが、段取りが悪かったので発売延期。 そういえば、オリンパスは小型軽量をウリにしていて、フィルム時代に35mmフィルムの1コマを半分にした一眼レフを、ハーフとか云って出していた。 同じフィルムで写真の枚数は倍になった。
今やメモリがとんでもなく安くなって、デジカメも8GB程度は当たり前。 凄い時代になった。
投稿者 tadashi : 06:50 | コメント (0)
2011年10月23日
よくわからない話ばかり
大王製紙の前会長は100億を超える金を借りて、何をしていたのか、はよくわからない。 ラスベガスやマカオで賭博をしていただけ、なのだろうか。 オリンパスの話もよくわからない。 社長を解任した会長は不明瞭な支出をしていたらしい。 ある会社を20億ドルで買収した際、手数料として6億8700万ドルが払われたとか。 手数料として多すぎると云ったら、クビになったらしい。 これもよくわからない話である。
オリンパスの場合、民生用のカメラでは、ニコン、キャノンよりは地味だから、今回のタイ洪水の影響はどうなのかな。 ソニーの一眼レフ新製品は発売延期になる、と報道されているが、古い人間としては、「ソニーの一眼レフ」がいいのかどうか、よくわからない。
オリンパス前社長 「これは組織的犯罪」
(産経新聞) 2011年10月22日 08時00分
【ロンドン=木村正人】オリンパスに解任されたマイケル・ウッドフォード前社長(51)が20日、産経新聞と単独会見し、同社の企業買収をめぐる不明朗な支出について「組織的な犯罪だ」と告発した。「同社の菊川剛会長は会社や国を売っているのと同じだ。こんな不正を見逃していると日本に海外の資本は来なくなる」と疑惑の徹底解明を求めた。
英医療機器メーカー「ジャイラス・グループ」を20億ドルで買収した際、6億8700万ドルが租税回避地のケイマン諸島にある投資コンサルタント2社に支払われていたことが判明した。
英国人の同前社長は4月にオリンパス欧州法人社長から本社社長に抜擢(ばってき)されたが、14日の取締役会で解任された。
投稿者 tadashi : 07:37 | コメント (0)
2011年10月22日
秋来たり 紅葉すれど 柿ならず
我が家に1本しかない柿の木も、葉をみると虫にやられていて、柿は例年の5分の1くらい。
数少ない柿は、鳥が食べてくれるだろう。 クマでなければ、けっこうなことである。
投稿者 tadashi : 00:39 | コメント (0)
2011年10月21日
雑感 〜カダフィの終焉ほか〜
昨夜からカダフィ死去のニュース。 いきさつはともかく、リビアは新政権へ。 しかし、エジプト同様政権がまとまるかどうか、は不明。 政権打倒までは呉越同舟で行けるが、その後の方向ではまとまらなくなるのが当たり前だから。
ギリシャの緊急財政案に反対デモ。 2004年はオリンピックに浮かれていたはず。 浮かれると落ち込みは余計にこたえる。 しかし、なんとか乗り切らないと、ヨーロッパ全体が危うくなる。 ここ1,2年がヤマだろう。
タイの洪水も大変なことになってきた。 こっちは、ここ1週間ぐらいがヤマになりそう。
投稿者 tadashi : 07:51 | コメント (0)
2011年10月20日
新聞は紙であり続ける?
フランスでは新聞の配達サービスはないから、タバック(コンビニ相当)や駅で買う。 朝出来たてのパンと一緒に、タバックで買うのがふつう。 どうしても配達してほしい場合は郵便配達になるので午前10時前後になり、サラリーマンは夕方帰宅後でないと読めない。 だから発行部数は日本ほど多くない。
地方には地方紙があるが、全国紙はル・モンドとフランス・ソワール。 ル・モンドは硬い論調でインテリ向きである。 フランス・ソワールは柔らかめの夕刊紙で、それなりに人気はあったはずが、紙での発行をやめるらしい。 USA Todayみたいなのも出てきたようで、その影響もあるかも知れないが、、、
新聞を家まで届ける日本の習慣は、いつまで続くのだろうか。
2011年10月15日 提供:共同通信
【パリ共同】フランスの夕刊全国紙フランス・ソワールは14日の経営委員会で、経営難を理由に今年12月から紙面発行を取りやめ、ネットでのニュース配信に完全移行することを決めた。フランス公共ラジオが伝えた。フランスの全国紙で紙面を廃止してネット配信への移行を決めたのは、同紙が初めて。同紙は1944年創設の大衆紙。
投稿者 tadashi : 06:34 | コメント (0)
2011年10月19日
まだ焦点は定まっていない 〜反格差デモ〜
「ウォール街占拠」から始まったデモは、「格差社会に反対」をスローガンに全世界的なデモになってきたが、一時のファッションで終わるだろう。 フラストレーションの発散にはなってるけれど、具体的な要求になっていないから。 今回のデモの特徴は、リーダーがはっきりしないこと。 だから統一がとれていないし、要求事項が漠然としている。
99%が1%に文句を云っている、というのはわかるようでわからない。 仮に1万人だとすると、9,900人が100人に文句を云うことになる。 この100人に「富が集中している」というのが統計的に正しいとしても、それだけではハッキリしない。 マードックとか個人名をあげても、ウサばらしで終わるだけである。 閣僚と同じように、全国民に「資産公開をせよ」というスローガンならわかるが。
しかし、「資産公開法」が仮にできたとしても、そこからどうするのか。 「資産上限法」でもつくって、「上限を超える資産を没収する」というなら話はわかる。 そういう具体的なスローガンになるはずがない。 1%に文句を云っている99%の人間の主張は千差万別で、バラバラだからである。 2014年ころには、これをまとめる奴が出てくるのでは、と予想しているが、、、
大王製紙の前会長とやらの未返済の55億を、一族の親戚筋が返したとか。 こういう連中は1%の人間になるのは明白だけど、伊予三島の市民が文句を云うデモは、起こるはずがない。
投稿者 tadashi : 03:17 | コメント (0)
2011年10月18日
Happy Birthday to Harry
今日ハリー君は4歳になったのでハッピー(写真は3日前に竹原で撮ったもの)。
ほかにハッピーなのは、アリーグはレンジャーズ、ナリーグはカージナルス。 アンハッピーなのは、タイガースとブルワーズ。 とくにブルワーズは同地区2位のカージナルスに負けたから、悔しさもひとしおだろう。 壁面(CATV端子)から10m引っ張ってるので、新しいTVでは地アナに変換したBSの感度が不足。 BSでMLBを見るため、パラボラをオーダーしていたのが届いた。 日曜日にとりつけたので、アリーグ、ナリーグのリーグ優勝決定の最終戦を観ることができた。
投稿者 tadashi : 07:32 | コメント (0)
2011年10月17日
竹原の街並保存地区を歩く 〜安芸の小京都〜
週末ハリー君も一緒に竹原へ行った。 昼飯は保存地区のソバ屋さんで「鬼瓦蕎麦」。 瓦をホットプレートとして、緑色の焼そばをつけ麺として食べるシロモノだった。 オープンエアー的な席だったので、ハリー君は食べ終わるまで、おとなしく待っていてくれた。
投稿者 tadashi : 00:03 | コメント (0)
2011年10月16日
Ritchie他界す
カーニハンとC言語をつくり、トンプソンとUnixを開発したリッチー(Dennis M. Ritchie)さんが先週亡くなっていた。 Ritchieさんは、Linux世代より一つ前のUnix世代ではよく知られている。 C言語のほうはKernighan & Ritchie のThe C Programming Languageが有名である。 日本では「プログラミング言語C」として翻訳されたので、この本でCを学んだ人も多いと思う。 この「プログラミング言語C」の翻訳者である石田晴久さんも5年くらい前に60歳代で亡くなっている。 Ritchieさんも70歳だった。
歌手のトニー・ベネットが85歳、ハリー・ベラフォンテが84歳で健在なのに対し、ソフトウェア関係の人の寿命は短いのかな、、、
C言語およびUNIXの父、デニス・リッチー死去 ― 享年70歳
TechCrunch Japan 10月14日(金)2時37分配信
UNIXの父であり周囲の尊敬を集めたコンピュータサイエンティストのデニス・リッチーが、しばらくの闘病を経て先週亡くなっていたことがわかった。享年70歳だった。
リッチー(dmrと呼ばれることもある)は、プログラミング言語のひとつであるC言語を生み出したこと、そしてケン・トンプソンとともにUNIXを創りだしたことで世界中にその名を知られている。リッチーはキャリアのほとんどをベル研究所で過ごした。彼が加わった1967年当時はアメリカで最も巨大な電話回線提供社であり、かつ最も有名な研究所のひとつを運営する大企業であった。
60年代後半にトンプソン(彼はCの前進であるB言語を生み出した)とベルで働いているとき、訪れようとしていたミニコンピュータ時代をにらみ、より効率的なオペレーティングシステムを開発しようと思い立った。二人を中心としたこの作業は、1971年のUNIXへと繋がっていった(DEC PDP-11の上で動作した)
UNIXは安価で、かつさまざまなマシンを動作対象として想定してはいた。いったん動作させることができれば、その上にさまざまなソフトウェアシステムを載せることができるようになっていた。しかしOSがマシン語(アセンブリ言語)で記述されていたため、移植性も低く、またメモリの取り扱いにも苦労することとなった。
そこでリッチーとトンプソンは、C言語のシンタックスを発展させつつ機能を増やし、ついにはOSを記述できるところまでに性能をあげていった。そして1973年までにはついに、UNIXをCで書き換えてしまったのだ。カーネル部分は同年中に公開された。
今日、C言語は依然として2番目にポピュラーな言語として世界中で使われている(ないし、これまでに記述されたコード量としては第2位につけている)。そしてC++やJavaにさまざまな考え方が引き継がれていった。またUNIXについての二人の仕事は、たとえばLinux TorvaldsのLinuxなどにも引き継がれていった。このUNIXの仕事だけでも、リッチーは現代でもっとも重要なエンジニアのひとりとして位置づけられるべきだろう。
実際、UNIX関連の仕事により1983年にはケン・トンプソンとともに、チューリング賞を受賞している。また1998年には当時の大統領であるビル・クリントンからアメリカ国家技術賞を受け取っている。
投稿者 tadashi : 05:40 | コメント (0)
2011年10月15日
ハリー・ベラフォンテ 〜バナナ・ボート〜
トニー・ベネットと同じCNNの対談番組で、昨日jはハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)が出ていた。 ニューヨーク市ハーレム生まれのジャマイカ系黒人だけれど、84歳の今も元気。 トニー・ベネットは歌オンリーしか話していなかったが、ハリー・ベラフォンテはもっと社会的な話をしていた。 おもに公民権運動の話だけど、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)の話になると熱がこもっていた。
1956年に『バナナ・ボート』が世界的な大ヒットとなり、アルバム『カリプソ』も当時としては珍しいミリオンセラーを記録し、一躍スターとなった。 中学生時代に覚えた「デーオ、イデデ、イデデ、イデデ…」という出だしは今も耳に残っている。 日本では浜村美智子がコピーして、これもヒットした。
1968年にキング牧師は暗殺された。 ハリー・ベラフォンテは同じ1968年のNBCの歌番組で、デュエットした白人女性歌手の手が触れただけで「大問題になったこと」を披瀝していた。 同番組をビデオで再生してたが、「こんな些細なこと」で文句を云う白人がいたことに、昔のアメリカを再認識した。
ウォール街占拠から始まった若者の運動はまだ続いているが、「公民権運動の比ではない」と思っているだろう。
投稿者 tadashi : 18:33 | コメント (0)
トニー・ベネット 〜霧のサンフランシスコ〜
トニー・ベネット(Tony Bennett)は85歳だけど、数日前にCNNで元気に対談している姿を見た。 I Left My Heart in San Francisco、邦題「霧のサンフランシスコ」で知られているが、フランク・シナトラ風のジャズ歌手である。 アメリカでは、シナトラの My Way とベネットの I Left My Heart in San Francisco がカラオケの定番、ただし若者でなく年寄りの定番である。 I Left My Heart in San Francisco の曲自体は50年代につくられていたが、60年代にトニー・ベネットが歌ってヒットした。 しかし、日本で「霧のサンフランシスコ」として流行ったのは70年代に入ってからである。 トニー・ベネットは今でも唄っているから尊敬に値する。
1967年に「花のサンフランシスコ」」(スコット・マッケンジー)がアメリカでヒットすると同時に、日本でもそれなりに流行った。 この背景には、サンフランシスコ発の「ヒッピー」がアメリカで流行したことがあり、ヒッピーの歌とも云われた。 I'm going to San Francisco・・・で始まるシンプルなメロディ。 じつは、アマチュアバンドで持ち歌にしていたのである。 「霧のサンフランシスコ」はこのあと広島に来てから知った。
トニー・ベネットはイタリア系アメリカ人で、フランク・シナトラ同様、マフィアとの関係を指摘されている。 今の日本では、紳助みたいにアウトになってしまいそうである。
投稿者 tadashi : 05:04 | コメント (0)
2011年10月14日
一見情報氾濫に見えるが
ネット時代になってから、たしかに情報は溢れている。 マスメディアで扱われる情報は、速報はTV、詳細は新聞というのが定番だけど、新聞にはもはやTVとネット情報以上のものがない。 新聞はプリントアウトにすぎないが、まだヤメルとこまではいっていない。 街で生活する人は、カフェや職場で読めるなら、そのほうがいいい。 若者にとってみればゴミをつくるのもイヤだろう。 iPadのような携帯端末で見るほうが、紙を浪費しなくてすむ。
問題は「情報の内容」である。 ほとんどの情報はクズだから、その中から意味のある情報を即座に見出さないと、いくら時間があっても足りない。 とくに出典が不明の情報は「眉つば」と思ったほうがいい。 ツイッターは「つぶやき」だから、とくに注意が必要だろう。 井戸端会議のおばさんの「つぶやき」と思えばいい。 隣人との距離が遠くなったので、井戸端会議がネットをうろついている。
データベースの一次データ相当の素な情報は、できるだけ「素」なほうがいい。 NHKで流される外国のTVにはフィルターがかかっている。 これが不満でCNNは、アジア向けで翻訳つきではあるが、よく見ている。 ヨーロッパのTVも直接見たいが、日本では難しい。 できるだけ素な情報を見て、自分で考える努力をしないといけない。 そうすれば、新聞に書いている記者や論者のレベルがわかるようになる。 NIEというのは「記者の良し悪し」を判断することなのである。
ヒマつぶしや遊びでネットを使う話は除外している。
投稿者 tadashi : 08:14 | コメント (0)
2011年10月13日
Regzaでなくてよかった 〜Bravia発火〜
ソニーのBraviaが発火するとか。 火を吹くのはふつう電源まわり。 バックライト用の変圧器が原因らしい。 火を吹くのは電圧がかかっているとこだから、コンデンサ、トランスあたりを疑えばいい。
ソニーはネット攻撃の対象にもなっている。 こないだの騒ぎが下火になったと思ったら、またやられている。 部長クラスに不適格な奴がいるからではないか。 責任は感じていても、適切な指示を出せないでいるような気がする。 ネット時代になってから、大企業ほど問題処理の能力に欠ける。 これは三菱重工関連でも感じている。
TVの場合、つぎに火を吹くのはRegzaかな。
ソニーTVブラビア、発火のおそれ 160万台無償修理
(朝日新聞 2011年10月12日)
ソニーは12日、液晶テレビ「ブラビア」の一部製品で本体上部が発熱する不具合が見つかり、国内の約18万9千台を含む約160万台について、無償の点検・修理を始めると発表した。これまでに11件の不具合が報告されているが、けが人が出たり、類焼に至ったりした例はないという。
点検・修理の対象は、2007年7月〜08年6月まで国内外で生産された40型テレビで「40X5000」「40X5050」「40W5000」「40V5000」「40V3000」の5機種。国内では07年9月から発売されていた。
投稿者 tadashi : 08:04 | コメント (0)
2011年10月12日
陸続きにならないと
TPPは「首相の決断」が問題で、ノダの真価が問われている。 ほっとくとガラパゴス化が進むだけ。 人口3千万程度ならそれでもかまわないが、世界経済のグローバル化は避けて通れない問題である。 「経済鎖国」を続けるわけにはいかないだろう。
日本は大陸と陸続きにならないといけない。 イギリスは、すでにユーロトンネルで、ヨーロッパ大陸と陸続きになっている。 日本の場合、まず韓国と陸続きになる必要がある。 もちろん、ユーロトンネルとは比べ物にならない技術は必要。 しかし、こういうビッグプロジェクトが閉塞感の打開になるのではないか。 もっとも、韓国とつながっても、中国へ行くには北朝鮮を通らないといけない、 しかし、西ベルリンへ行くのに東ドイツをスルーすれば行けたように、これは交渉次第。 それに「30年プロジェクト」くらいにしておけば、韓国も南北統一されるかもしれない。
我々は島国であることを再認識して、それを打破する気概のある政治家を必要としている。
投稿者 tadashi : 06:50 | コメント (0)
2011年10月11日
3連休×3=9連休 になる
9月に2回と10月に1回で3連休が3回もあった。 昨日の山陽道も、高屋付近の下りから大阪方向の上りを見ると、車の流れは多かった。 連休の最初と最後は混むから、まとめて9連休にすれば、少しは緩和されるだろう。 もっとも、これもセコイ話。 祝日を全部まとめて、お盆を2週間くらいの休みにすればいい。 フランスのバカンス1ヵ月には負けるけれど、少しはバカンスらしくなる。
もっとも、ヨーロッパの財政状態は危機的。 「みんなで救う案」にスロバキアは難色を示している。
さて、どうなるやら。
投稿者 tadashi : 07:28 | コメント (0)
2011年10月10日
初めての一人旅は高野山 〜昔話ですが〜
初めて一人旅をした行き先が「高野山」だった。 高校3年生の夏休みで8月下旬。 南海電車の難波駅で宿泊つきの往復乗車券を買った。 宿坊に泊まるので夜は精進料理。 それはよかったけれど、障子張りの部屋で寒かった。 高野山が「山」であるのを甘くみていたようで、風邪気味になった。
(写真は高野山奥の院:先月末撮影)
「なんで一人旅をしたか」というと、その1月ほど前に家族(父母と妹2人)で高野山へ1泊旅行をしていた。 そのときは「高野山」には気分が乗らず行かなかった。 須磨(神戸)からなら4,5時間の距離だし、難波付近まではよく行っていた。 中学生のころから、日本橋のジャンク屋通いをしていたから。 その前年の冬に家族で東京に行ったときも、昼間は家族とは別行動で秋葉原のジャンク屋へ行っていた。 家族で行く旅行目的とは合わなくなっていたようである。
それが突然高野山へも行ってみたくなったので、一人旅になったのである。
投稿者 tadashi : 01:45 | コメント (0)
2011年10月09日
Le Clos Lucé 〜ダ・ヴィンチが没した城〜
ロワール川沿いの城として、シャンボール、ブロア、アンボワーズ、シュノンソーなどすべてを訪れるとけっこう時間がかかるので、観光的にはシャンボールとシュノンソーぐらいになっている。 この辺りを数回訪れていたが、ダ・ヴィンチが没した Le Clos Lucé には行くチャンスはなかった。 この城はアンボワーズ城から1kmぐらいのところにあるが、訪れる人はさほど多くはない。
Le Clos Lucé に行ったのは1998年。 パリで国際会議があったとき、当時マルチメディアがブームになっていた。 通信学会誌の解説記事でNさん(東工大)が、アメリカの例としてラスベガス(MGMホテル)の3Dショウをあげていた。 ちょうど同じショウを春に見ていたので、それは納得した。 ヨーロッパの例としてはフランスをあげていた。 それはポワチエ(Poitiers)にあるインターナショナル・センターだった。 アンボワーズから足を伸ばして見に行ったけれど、ふつうのゲーセンだったのでガッカリした。 どうみても、Nさんが自分で見て確かめた記事とは思えなかった。
もっとも、Le Clos Lucé もダ・ヴィンチ博物館なので観光的である。 その証拠に玄関にはモナリザの絵(レプリカ)が掲げられている。
投稿者 tadashi : 08:25 | コメント (0)
Steve Jobs は Leonardo Da Vinci ではない
Steve Jobs dies に際して、孫正義がインタビューの答えで「現代のダ・ヴィンチ」と云っていた。 それは違う。 ダ・ヴィンチは絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。 ロワール湖畔アンボワーズ近くの城に行ったら、よくわかる。 Steve Jobsをビジネスマンとして称えるのはいいが、見識不足である。
投稿者 tadashi : 02:26 | コメント (0)
2011年10月08日
西条酒祭り 〜東広島に年に一度人が集まる日〜
今朝、車の検査のため寺家のスバルに行った。 3連休初日でもあるので、往きは旧2号線(286)を避けて、線路より北側の裏道で行った。 代車で帰るときは、旧2号線からサタケ前を通ろうとしたら、やけに車が多い。 サタケの前を通るときに気がついた。 「酒祭り」の会場の1つだった。
「酒祭り」の初日というのは知っていた。 メインの会場は西条駅近くの公園だから、その辺は通らないつもりだったが、Gさんの勤めるサタケのことは忘れていた。 酒の原料はコメだし、東広島の代表企業で「酒祭り」には欠かせない企業。
酒は飲めないから酒祭りに縁はない。 キリン・フリーみたいな賀茂鶴フリーでも出れば、飲んでみるかも知れない。
投稿者 tadashi : 15:29 | コメント (0)
茶番劇 〜小沢裁判〜
Webで週刊・上杉隆(7ページ)を読んだ。 記者クラブとの関係で新聞・テレビよりやや詳しいだけ。 なにも内容はない。 政治資金規制法で「無罪を勝ち取るだけ」という立場と「本質を知りたい」という立場が、噛み合うハズがない。 4億円も「私のお金」でいくはず。 おそらく無罪で終わるだろうが、それまで茶番劇は続く。 お膳立てをしたのは検察審査会という世論だから、当然といえば当然なのである。
ヤンキースがタイガースに負けて、リーグ優勝決定戦にも出られない。 こちらも茶番劇みたいだけど、「やってみないとわからない」というところが違う。
投稿者 tadashi : 06:42 | コメント (0)
2011年10月07日
Appleといえば 〜Steve Jobsに因んで〜
AppleのPC Macは昔から愛用していたけど、家にあるのはTigerで停まっている。 世の中はLionまで行ってるようだけど、本屋で雑誌の表紙を見るだけ。 Apple社もPC以外の製品で業績を回復してきたから、Lionなんて知らない人も多いだろう。
iPod, iPad, iPhoneの流れが、Apple社の業績をグンと伸ばしてトップに躍り出た。 このTeblog、iPod で検索してみたら10件出てきた。 iPodの出初めのころ、手に入れるのに奮闘していたようだ。 しかし、iPadは店頭で手にとってみただけ。 iPhoneに至っては、これだけスマホの時代になっても、さっぱり縁がない。 天邪鬼というより、ケイタイをほとんど使わないからだろう。
果物は好きなので、毎朝 Appleを食べるようにしているが。
投稿者 tadashi : 05:24 | コメント (0)
2011年10月06日
Steve Jobs dies 〜CNNニュース〜
引退したのは、ついこないだだった。 56歳というから残念だろう。 オバマが哀悼の意を表すくらい、アメリカではビッグニュースになっている。
投稿者 tadashi : 10:37 | コメント (0)
TVがふつうになった 〜12インチから〜
6月末にアナログTVが壊れたので、12インチのPCディスプレイでTVを見ていた。 ナビの大きめくらいのサイズ、そこそこ用はたしていたが、画面が暗いのと正面からずれるとほとんど見えなくなる。 20インチ程度のが近くのホームセンターにあるのは知っていた。 それでもいいかな、と思って日曜日に行ったが、担当者が居なかった。 大体このあたりの家電量販店には、オリオンとかユニオンなどの小さいのは置いていない。 BS,CSのないのは難点だけど、アナログはついている。
ならば、と思って月曜日にネットで探してみたら、同程度のはすぐ見つかった。 さらに見ると、32インチが3万円台である。 19インチの2万3千円と比べると、BS,CSもついてるので、コスト・パフォーマンスはいい。 結局その日に32インチのをアマゾンでオーダーして、昨日の水曜日に宅配で受け取った。 もとの置き場なので、CATV端子の壁面から10メートルある。 アナログでないとダメなので、「地アナ」で見ている。
東芝REGZAとあるがMade in China,、電源から出火しないことを祈っている。
投稿者 tadashi : 06:33 | コメント (0)
2011年10月05日
地方分権への歯止め 〜政令指定都市の人口100万人〜
広島市や仙台市が政令指定都市になったときは「100万人以上」だった。 だから周辺の町を合併して「数合わせ」をした。 ところがその後、岡山や新潟など100万人以下の政令指定都市もつくられるようになった。 ドンドン政令指定都市をつくっていけば、「県廃止」につながるかな、とも思っていた。 ところが、今回熊本を20番目の政令指定都市にしたあとは、100万人以上に戻すらしい。
「多くなりすぎるのは困る」という判断なのだろう。 国の行く末を考えて、というより、総務省の役人の権益を守る、という背景が見え隠れする。
熊本市が20番目の政令市に 18日に閣議決定 (東京新聞 2011年10月4日)
政府は4日、熊本市が求めていた来年4月1日からの政令指定都市への移行を認め、今月18日に関係政令を閣議決定する方針を決めた。昨年4月の相模原市に続き全国20番目の政令市となる。九州では1963年の北九州市、72年の福岡市に次いで3番目。
移行の人口要件は、熊本市までは70万人以上に緩和されたが、今後は従来の100万人以上に戻る。現在、合併で100万人以上の都市をつくる動きはなく、政令市は全国20市体制が当面続く見通し。
九州のほぼ中央に位置する熊本市は、中央省庁の出先機関などが集まる。今年3月の九州新幹線鹿児島ルートの全線開業で、アクセスも向上している。
(共同)
投稿者 tadashi : 06:40 | コメント (0)
2011年10月04日
アメリカのつぎは日本?
メロン、そしてトマト、レタスが危ないと報道されたアメリカ。 こんどは不況、失業問題でのデモが、全米で展開される事態になった。 オバマ政権では、10%の失業率改善の根本的な対策はとられていない。 日本の場合、失業率は半分くらいだけど同じ問題を抱えているから、アメリカに追従する可能性もある。
現在、日本とアメリカとの類似点は「民主党政権」であること。 デモの主張の1つ「大企業からもっと税金を」というのは共和党ではなく、民主党の政策であり反オバマとは矛盾する。 日本の場合は、いままでの法人税が高すぎるから、下げるというのは当然。 そういうイミでは、この問題はデモの目標にはなり難い。
それと、現在の若者のパワーを考えると、日本で同様のデモは起きそうにないが。
投稿者 tadashi : 06:26 | コメント (0)
2011年10月03日
どうでもいいノダ 〜嫌悪感はないので〜
Teblogを始めてから、政治的なことはあまり書いてこなかった。 小泉政権は末期だったので、あと自民が3人、いずれも論評するまでもなかった。 2009年民主政権誕生後少し書くようになった、「ホラ、だまされたやろ」。 ハトはお笑いで終わったが、そのあとのカン。 生理的に「嫌悪感」を持ってしまったので、どうしようもない。 なにかにつけてアホカンと書いていた。
ノダは、今のところ、どうでもいい。 ただし、民主党は嫌いである。
投稿者 tadashi : 06:55 | コメント (0)
2011年10月02日
オモテから見たウラ社会
ウラ社会のことは、マスコミで報道されることしか知らない。 昔、美空ひばりが田岡親分と仲良くしてたという報道があったが、「そんなものかな」としか思わなかった。 演歌は任侠の世界だし、地方興行はその地の親分が仕切っていても不思議はない。 広島もヤクザ映画に登場していたが、赴任当時は収まってたので、ヤクザの街という実感はない。
むしろ、生まれ故郷の神戸にヤクザの雰囲気を感じる。 1985年ごろに三宮で発砲事件があり、当時三宮の街でパトカーを見ると警戒中を感じたりした。 須磨の実家付近には本多組の親分の豪邸があり、通学路でもあったから、毎日前を通っていた。 本多組は山口組とは別組織である。 今年の2月にも須磨寺から西へ上がっていく道を通ったときは、もう本多という表札はなかった。
ネットでは1年前にはまだあるという情報もあったが、この目で見たところでは解散したようである。
投稿者 tadashi : 07:33 | コメント (0)
2011年10月01日
早くも10月
今月から新しい条例が適用されるらしい。 生肉ユッケの調理法、暴力団取締など。 新条例が効果的かどうかは、半年とか1年経ってみないとわからない。 生肉はともかく、暴力団関係の条例はウラとオモテの境界をきっちりつけようとしている。 しかし、帯の面にウラとオモテの区別をつけても、生身の社会は「メービウスの帯」みたいなもの。 ウラ面をずっと辿っていくとオモテ面になり、結局両面はつながってしまう。
完全に無縁にするのは不可能だろう。